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修繕見積もりを打ち出している最中のパソコン画面が、スクリーンセーバーに切り替わった。喜之との思い出に長いこと耽ってしまったらしい。
休憩時間に見たあの雑誌のせいだ。あれのせいで恥ずかしい記憶まで思い出しちゃったじゃないか。
両手で顔を覆ってデスクでひとり悶絶していると、傍らに置いたスマホにメッセージ通知が表示された。会社支給の携帯じゃなくて自分のスマホのほうだ。

「……喜之?」

思わず声に出てしまって慌てて手で口を押さえた。
喜之が仕事中の俺にメッセージを送ってくることなんて今までほとんどなかった。あっても短い文で事務的な連絡くらい。
どうしたんだろう。まさか喜之に何かあった……とか?
軽く混乱してると、はす向かいに座ってる営業事務の山中さんが首を伸ばして俺のほうをのぞきこんできた。

「柏木さん?どうかしました?」
「いえいえなんでもないです!」

早口で応えてから急いでメッセージを確認する。その内容は『今、昼休み?』という、やっぱりそっけない短文だった。
喜之らしくてちょっと口元が緩む。『あと十五分くらいで。何かあった?』と素早く返せば、即既読がついて衝撃的な文字列が表示された。

『守の会社の近くに来てるんだけど、昼飯まだだったら一緒にどうかと思って。』

動揺のあまり手が滑ってデスクの上にスマホが落ちた。
音がしたせいで山中さんが不思議そうな顔でまたこっちをのぞきこんできたから、笑ってごまかした。
落ち着け、落ち着け俺。ただの昼飯の誘いだろ、別になんてことない。
そう自分に言い聞かせて『いいよ』と返したら、会社近くの公園で待ってるという旨の返事が来た。既読だけつけてスマホを裏返す。

どうしよう……喜之とランチだ!
正直、嬉しいとかいうより前に動揺が大きい。デスクの上の資料やファイルを整えて落ち着こうとしたが、全然駄目だった。

――ほんの一か月半ほど前のことだ、喜之がおかしくなったのは。
いや、おかしくなったわけじゃなくて、本人曰く『本当の自分になった』のだとか。
何をするにも俺を気遣ってくれて、優しく笑って、スキンシップをするようになって、甘い声で俺に好きだと言う喜之。
こういうのがいわゆる『恋人らしい』ってことなんだろう。
喜之にそんなのは俺は期待していなかったものの、嬉しくないと言えば嘘になる。でも、期待してなかっただけに未だ感情が追い付かない。
こんなことに直面するたび顔が引きつるという有様だ。

今もそう。喜びよりも戸惑いが先立っている。
仕事の合間に会えるのは素直に嬉しいと思う。とはいえ、こんなお誘いは今までなかったことだから俺にとっては大事件に等しい。
実は何か悪い報告があるとか、そういうものを隠してるんじゃないかと疑ってしまう。

時計を分刻みでチラ見してたせいで十五分はおそろしく長く、結局、まったく仕事にならないまま昼休みに入った。

行動予定表に昼休みを入力したあと山中さんにも声をかけて外に出た。
曇っているが雨までは降ってない。少し肌寒いくらいの気温が、緊張して火照った俺にはちょうどよかった。……同居して数年の恋人相手に緊張するなんておかしな話だ。

公園に着くと、ベンチに浅く腰かけている人をすぐに見つけた。
冷たく見える端正な顔立ちに艶めいたサラサラの髪。足が長く背も高いが、やや猫背の男――彼は、真剣な面持ちで文庫本に目を落としていた。彼がいるそこだけ空気が違うように感じる。
見まごうことなく喜之だ。ビジネスカジュアルっぽいジャケット姿がすげえかっこいい。

「よ、喜之」

少し離れたところから上ずった声で話しかけると、彼が顔を上げた。それから俺を見て「守」と穏やかに笑いかけてくる。
喜之は本を閉じるとバッグにしまい、大股で近づいてきた。

「待たせてごめん、喜之」
「全然。十二時から昼休みなのかと思ってたから、むしろ仕事の邪魔しちゃったかな。悪かったね」
「あ、いや、外回りのときはそうなんだけど社内にいるときは交代制でさ、うちの部署。もうすぐってとこだったし平気」

そうなんだ、と喜之が優美な仕草で首を傾げた。

「えーと、昼飯だよな?この時間だと店どこも混んでるんだけど、空いてるとこ――」
「混んでたっていいよ。守と一緒なら全然気にならない」

聞き慣れない言葉遣いと見慣れない笑顔に、俺の口元が反射的に引きつった。
本当に、誰だろうこいつ。知らない人を見ているようで怖くなって、咄嗟に目をそらした。

「そ、そっか。喜之は何食べたい?」
「あまり重くないものだとありがたいかな。ていうか誘っておいて悪いんだけど、このへんの店よく知らないんだ。おすすめがあったら教えてほしいな」
「だったら和食とかどう?えっと、寿司屋とか。昼時は丼ものだけなんだけど結構うまいよ」
「いいね、そこにしよう」

こういうとき喜之は「なんでもいい」とは言わない。基本的に自分の希望をまず告げてくる。無駄に迷う時間をかけたりしないところが好きだ。
いつもの喜之が戻ってきた気がして頬が緩んだものの、彼が蕩けそうな笑顔になったからまた引きつった。

「あの……じゃあ、行きますか」
「ああ」

歩き出すと同時に喜之がぴったり寄り添ってきたから、さりげなく距離をあけた。

徒歩で行ける場所にある路地裏の寿司屋。職場の先輩に連れてきてもらって以来ときどき来てる店だ。
平日昼は丼定食しかメニューにないかわりにリーズナブルで早い。
店内は、会社員らしき男女で席が埋まってた。
ぎりぎりカウンター席が空いてたからそこに通され、俺はサーモンいくら丼、喜之は海鮮丼を頼んだ。
喜之と対面じゃなくなったことでちょっと肩の力が抜けた。おしぼりで手を拭きつつ普段通りに話しかけられるくらいには。

「あのさ、珍しいよな、お前がこの近くに来るのって。どうかした?」

何か悪い知らせが――と内心心配しながら聞けば、同じく手を拭いた喜之が軽い調子で返してきた。

「別に。午前中は打合せで出かけてたんだけど、家戻る前に守の顔がどうしても見たくなったから。それだけ」
「あ、はは、そう……へえ……」

大好きな恋人からのこんな台詞、普通なら照れたり喜んだりするところなんだろうな。
やばい、変な汗が出てくる。無性にいたたまれなくなって、そこには触れず話題転換した。

「打合せってこの前言ってたやつの?」
「ああ。このあと家に帰ってから書きはじめるつもり」

本の売れ行きが好調の喜之は、あちこちから仕事のオファーが舞い込んでくるようになった。
そしてこのたび、文芸誌で書き下ろしの短編を載せることになったそうだ。
ライター仕事も変わらず続けてるけど、作家として本格的に弾みがついて勢いに乗っている喜之。
彼が順調なのは俺も嬉しい。もちろん応援もしてる。だけど素直に手放しで喜べない。色々と複雑なんだ、今は。
ぼんやりしてたら隣から怪訝そうに顔を覗き込まれた。

「守?」
「あ、ああうん。そっか。頑張って」

おざなりに出た言葉が白々しい響きになっていた。
そのことに気づいておそるおそる喜之をうかがうと、彼は気を悪くした様子もなくにっこり笑った。

「なんか思い出すよ。学生の頃、守と二人でこんな風に会って飯食べた時のこと」
「あー、そういや最近はほとんど家だもんなぁ」

ここ数年は家で一緒に食べるか、別々に食べるかのどっちかになっている。こうして二人で外食することなんて年に数回しかない。
昔とは生活が変わったから当然と言えば当然だけど。それに人の多いところが苦手な喜之のことを思えば、外食する気になれなかったっていうのもある。
マンネリ防止のためにもこういう機会を増やすべきか、と考えたところで、喜之が甘ったるく囁いてきた。

「まあでも、俺としては家で守とゆっくり食べるのが一番かな。くつろぐから好きだよ」
「そ、そうなんだ……」

……もうね、逐一この調子。
喜之が俺のことを好いてくれてるのはこの前聞いた。だからそんな、ことあるごとにアピールしてくれなくていいのに。
いや、思い返せば俺も同じことしてたっけ。
なんでもかんでもとにかく喜之が好き、一緒にいられるのが幸せ、何をしても楽しいし大好き――こんなのを毎日ってくらい飽きずに繰り返してた。
相手から同じことをされてはじめて、自分がいかに恥ずかしい行為をしていたかを思い知った。三十手間のこの年になってようやくだ。

「海鮮丼、サーモンいくら丼のお客様、お待たせしましたぁ」

カウンターテーブルに定食の盆が並べられたことで話が途切れてホッとした。
さっそくありつきながら横目で見ると、喜之は醤油皿にわさびをたっぷり溶かしていた。
そして丼に乗せられた刺身を一枚一枚剥がし、ドロッとしたわさび醤油につけてちまちま口に運ぶ。そして最後に酢飯だけを食べる。

この独特な食べ方、間違いなく喜之だ。味覚が狂ってるんじゃないかってくらい調味料を濃くするのも、少しづつ分けて食べるのも。
喜之が喜之だってわかるたびに安心する。
彼が変わってしまってから俺はずっと、こんな『間違い探し』を続けている。


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