ある程度進んだ所で、ユウマは足を止めた。ヤイバものろのろと動かしていた足をようやく止める。顔を隠したままでいると、深く溜息をつかれた。 「ヤイバ。この間はありがとうございました」 やはり先日千鳥ヶ淵にいた青年は、ユウマだったらしかった。久々に呼ばれた名前に、思わず力が抜けかけた。久しく聞いていなかった声に無意識に安心している。 「いつまで隠しているんですか」 「…………」 だって今顔を見られてはいけないのだ。ヤイバが見る訳にもいかないし、ユウマに見られるわけにもいかなかった。 向き直るためだろうか。手が一瞬だけ離されて、そうして左手は再び大きな手に包まれた。ひく、と肩が跳ねた。 「俺に会いたくは、ありませんでしたか」 「………………」 「……俺は今、大学生をしています。両親はどういう訳かいませんが、今は里親に恵まれて、養子として如月という家で暮らしています」 ユウマが生い立ちを語り始めた。ヤイバは耳を澄ませた。久々の声だった。久々の体温だった。語りも、声の温度も、全て見知ったものだ。 「あの時は十二歳でしたけれど、今年で十九になります。まだ誕生日は先なので、十八ですが。君よりも恐らく、年上でしょう」 男の両手に包まれた左手が、慈しむように辿る指先にひくつく。 「君の事を思い出したのは、十二歳の時でした。違う俺の記憶が、君の事を必死に叫んで、強さを求めて、俺は随分混乱していました」 思い出した時のことを語ると、ヤイバは腕を引こうとした。ユウマはそれを許さなかった。両手で小さな手を引き留める。戦うことを知っている手を、今は戦うことをしらない大きな手が留め置く。 「ご、ごめ、…………ごめんなさ、」 震える声が空気を震わせる。ユウマは左手を少女の手から離し、顔を必死に隠そうとした右手へ伸ばした。先ほどの抵抗が嘘のように、腕は彼女の顔から離れていく。 怯えと、贖罪と涙。快活な印象のある彼女の顔を彩ったのは、そんな色だった。ユウマは思わず言葉を止める。 「あ、あたし、ユウマを、ころ、」 「そうだね」 遮ると同時にその先の言葉を肯定する。びくりと震えた矮躯は、暴れる兆候を見せた。その前にユウマは両手を自分の方へ引っ張り、己の身体と腕で少女を拘束した。腕の中の彼女が息を詰めるのを感じた。そして今まで以上に激しく動揺しているのも。 「けど、あれは、全部が全部君のせいじゃない」 「……ちが、だって、あんなの、あた、あたしが……あんな、もっと言葉を選んでいたら……」 「君は確かに思った事をすぐに言ってしまうけれど、その分裏表がない。俺がどれだけその素直さを信頼していたか、君は知りませんでしたか」 君には慮りなんて無理です。 優しい言葉だった。ヤイバは馬鹿にされたように感じたのと、そのあまりに優しい温度に次に出す言葉を見失った。 「ヤイバ」 あまりに細い身体を、少し強く抱きしめた。こんなに近い場所に彼女を感じたことはなかったように思う。三回目のデートの時は、恥ずかしながら知識が偏っていたために添い寝を提案してしまったことを思い出す。今にして考えると、あれはもったいなかった。 こんな身体で戦っていた。強く振る舞って、実際それに見合うだけの強さが彼女にはあって、その分心も身体も傷を負った。 その心の柔らかい部分に一番深い傷をつけたのは。多分。自分だ。 「あなたとまた会えて、よかった」 「…………う、ああ、あ……あ……」 ヤイバが大きく肩を震わせた。ニット越しに熱い吐息を感じる。 「あた、しも」 少し腕を緩めると、彼女はユウマから離れるどころか、その腕でそのまま縋りついてきた。心臓が跳ねる。体温の上昇を感じる。 「会いたか、った……ゆ、ユウマが、この世界で、幸せになったらって、おも、……思ってた、の……」 ずびずびと鼻を啜りながら拙く言葉が紡がれる。 「でも、でも、見たら、ゆ、赦されたくなった……憎んでないって、また友達になろうって、い、言われたく、なった」 背中を撫でる。ゆっくりと、安心させるよう意識した動きは、多分前回の自分が知らなかったものだ。 「……そしたら、っ、ユウマと話すのが、怖く、なっ……あた、あたし、ひど、い、やつ、だ……」 自分本位な思考を懺悔しながらヤイバはユウマに縋った。ああ。頭の螺子が一本や二本抜けていると。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、よもやここまで酷いなんて誰が思っただろうか。 「君は本当に、救えないほどに馬鹿だ」 「ひ、ひどっ……」 ショックを受けたような様子でヤイバはぎゅうぎゅうとユウマに一層抱き付く。子犬が飼い主に甘えるような仕種はあまりに幼くて、余計に切なくなった。結局ユウマは、全部彼女に、彼女と十三班に丸投げして死んでしまった。 だからユウマは言ってやるのだ。ユウマが放り出した分まで勝手に拾って背負い込んで、荷物を増やしてもなおへらへらと笑う彼女の荷を、少しでも軽くしてやるために。
「……俺がいつ、君を憎んでるなんて、言いましたか」
ユウマは彼女の額に口付けた。一層腕の中に閉じ込めると、苦しさのあまりヤイバが喘ぐ。 「許すも何もありません。憎んでないんですから」 「ほ、ほんと……?」 「ええ、本当です」 「……うぇ、……」 よかった、よかったとうわごとのように漏らし、ヤイバはユウマのモッズコートを握りしめて、とうとう泣いた。耳元でひきつる喉の音を聞きながら、ユウマは幼子を慰めるように、何度も彼女の額に唇を押し付けた。 「う、き、……キス、して、るう……」 ようやく気付いたかという頃合いで、ヤイバが抗議めいた声を上げた。嫌ですか、と問えば彼女が唸った。恥ずかしいだけだろうか。 「と、友達は、おでこでも、キス、しない」 「じゃあ友達はやめましょう」 「えっ」 あんまりにも無防備である。背中へ回ったままの腕といい、異性と簡単に顔を近づける軽率さといい、不安になるほど無防備で、無頓着で、無邪気だ。 ヤイバは忘れている。今のユウマは十二歳の人工生命体ではなく、十八歳の、年上の男であることを。
「恋人になって下さい」
そうして世界を救い損ねた男は、自分の代わりに英雄になった少女の唇を奪った。
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