あんたカレー屋さん 【凛之介】



りんのすけくんの『本能』の続きになります。



梅雨も明けたというのに突然くる、叩きつけるような雨。
りんのすけは重い剣道道具をもって身軽にタッとはしって、近くのコンビニに入る。
ちょうど立ち読みしたかった雑誌があった。
するとコンビニの軒先に佇んで、本をめくる草を見つけた。

無視してもよかったが、なんとなく知り合いを見かけて声をかけないのもあれかと、ヤンヤンを買ってふらりと軒先に出て行った。
「よ」
「こんにちは、りんさん。」
目を伏せて、草は丁寧にお辞儀をする。
ばたばたとアスファルトを叩く雨が、わずかな涼風を運んでくる。

ピリッとふたを開け、ヤンヤンを差し出す。
「ん」
食え、というしぐさに草は目を細め本をしまった。
「いただきます。」

りんのすけは暇つぶしに、聞きたかったことでも聞いてみようと思う。
「ん。でさ。草、アンナ・カレーニナってどんな本?」
ぽしぽしヤンヤンをかじりながら、りんのすけはコンビニのガラスに寄りかかって問う。

「どんな本…。一言で言って超一流の不倫話でしょうか。」

その言葉にりんのすけは、小さく噴く。

「………婆ちゃん、俺に何読ませてんだ。はじめはアンナとかって人でてこねぇし、わけわかんねぇしで…」
「しばらく出てきません。たしかアンナ・カレー二ナは平行で二つの物語が進んでゆくので、アンナはサブ主役の一人といえます。」
「…でタイトル持ってってんだ」
「それは、作者の思い入れでしょうね…。読みにくいですか?」
「字、多いしこまけーからな。何ヶ月くらいかかっか、正直自信ねぇ」

りんのすけの言葉に草は丁寧に頭を下げた。
「すみません。」
「なんでおめぇがあやまんだよ」
「海外の書物は、訳者によって口当たりが違うんです。
りんさんにお薦めしたのは、岩波の…ですよね。
俺にとってはあの訳者が一番よかったのですが、もしかしたら新訳か新潮のほうが、りんさんにはよかったかもしれません。」
「…そんなもんかよ」
「そんなものです。」

ふっと、会話が途切れる。
雨音が響く中、草はつぶやいた。

「『神さまがあたしをこんな女に作ってくださったからといって、私が悪いわけじゃない』そういって、アンナは夫から離れ、不倫相手のところに行くんです。
倫理観はどうあれ、その情熱はすごいですよね。そしてその思い切りのよさも。」
草はくすくす笑った。
「不倫するほど、好きなやつ、か。でも旦那と好きで結婚したんじゃねぇのかよ」
「ずっと好きでいられるとは、限りませんから。
それに運命の出会いが結婚したあとに訪れたら…不幸ですね。
本当は小説をお薦めしますが、映画やミュージカルもDVDで出ていますからとっつきにくければ、レンタルでそちらから入ってみるのも手かもしれません。」

ん、と差し出されるヤンヤンに、草はありがとうと受け取る。
「ちげえって、チョコつけて食うんだよ」
「そうなのですか?このままでもおいしいですが。」
「草って、変なこと詳しいくせに、変なとこ物しらねぇな」
「ええ。そうなんです。」
真顔で言われて、りんのすけは声を出さずにくはっとわらった。

雨音がしずかになってきた。
そろそろ行けそうだ。
「じゃ、行くわ」
「あ、また降るといけないので、どうぞ。」
差し出された折り畳み傘に、りんのすけは不思議な顔をする。
「傘持ってるのに、雨宿りしてたのかよ」
「いえ、雨宿りではなく、ただ読みたい本のキリがよくなかったから気になってたまらず読んでいたんです。
家はすぐそこなので心配いりません。」
「変なやつ」
「お互い様でしょう。」
草は皮肉に笑う。
「じゃな、傘わりィけど、かりてくわ。竹刀ぬれたら困るし」
「はい。あ…」
「ん?」
借りた傘を差し、行こうとして振り返るりんのすけに、草は小さくつぶやく。

「『あなたの微笑みのため 僕の魂すべてささげよう』
ミュージカルのアンナ・カレーニナの歌詞にあるんです。
そんな相手、りんさんいますか?」

草の言葉に、りんのすけは答えず苦く笑って、雨の中を歩き出す。

もうしばらく、静かな雨は続きそうだった。

END

 

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