9月17日、ほとんどの荷物をまとめ終わった私たちは、お昼ご飯を食べてソファに身を預けていた。何も話さなくても苦にならない雰囲気。一也の肩に頭を乗せて目を瞑り、この1ヶ月半のことを思い返していた。とても濃くて長くて、それでいて今までのどの1ヶ月半よりも早く過ぎていった。もう季節はほとんど秋を迎えていて、日差しはあっても風は涼しいことが増えた。
「一也……本当にありがとう。すごく、すごく楽しかった。勇気を出してよかった」
「俺も。澄と一緒にいられて楽しかったし、幸せだった。俺の方こそありがとう」
私の腰を抱く手も、繋いだ手も、お互いに力が篭る。もうエアコンをつけなくてもだいぶ涼しくなった部屋は、時計の針の音しか聞こえない。それが無性に切なさを加速させる。
「……澄」
「ん?」
「返事。遅くなったけど、伝えるよ」
「……うん」
不意に一也がソファから身を起こし、私の方を向く。手は一度解かれたけれど、すぐに両手を包み込むように握られる。私も同じように一也に向き合って、しっかりと目を見た。真剣な瞳だ。自分から別れようと言ったにも関わらず、返事を聞くのが怖いと思ってしまっている。なんてワガママなんだろう。
「澄がアイドルにかける想いは、すげー強いんだなって、思った。だから、別れるよ。もし付き合ったままでいて何かあったら、澄がアイドルでいられなくなるから」
「一也……」
「でも俺、もう一度付き合える日が来るまで、ずっと待つことに決めた。澄のことが本気で好きだから。何年先でも、何十年先でも」
「……っ」
最終日だからとただでさえ緩んでいた涙腺は一也の言葉で崩壊し、ボロボロと涙が零れ落ちる。一也の名前を呼ぼうとするけれど嗚咽で上手く言葉にならなくて。そんな私の頭をゆっくりと優しく、一也は撫でてくれる。こうして一也に触れられるのも、触れてもらえるのも、そばにいられるのももう数時間だけなんだと考えると余計に涙は止まらなくなった。感情のままに泣いて、泣いて、気づけば一也の腕の中にいた。広くて温かくて安心する。長い時間をかけてようやく涙が枯れた私は、そっと一也から離れた。
「一也。ありがとう。アイドルを辞めるのはいつになるかわからないけれど……」
「澄の気がすむまで、続ければいい」
「ありがとう。もしいつかそんな日が来たら。……そんな日が来たら、」
「ああ」
窓の外に広がる海を見つめて、呟くように言った。私がアイドルを辞める日……。思い描くアイドルとしての道筋と、その終着点。曖昧に、それでいてはっきりと、目の前に見えている。
いつか訪れる終わりの時に思いを馳せていると、澄、と柔らかい呼び声が聞こえ、一也の方に視線を移す。寂しげな表情を捉えたかと思えば、徐々に視界を埋めつくし、見えなくなった。それと共に唇に感じる熱が私を支配した。
夕方になって、私たちは別荘を後にした。隣同士で特急に乗り、東京へと帰る。別れのことは考えないようにといつものような他愛のない会話を必死で探しては話した。それでもやはり、その時は来るのだ。
「送ってくれてありがとう」
「そんなの当たり前だろ」
「それでも、ありがとう」
実家に着いてしまった。いつまでも続けばいいと願った時間は、もうすぐ、去っていく。一也が持ってくれた荷物を受け取るとキャリーケースの上に置き、一也を見上げた。
「連絡するから。たくさんはできないと思う。返事もあんまりできないかもしれない。それでも、連絡していいかな」
「いいよ、待ってるって言っただろ」
「そう……だね。ありがとう」
喉の奥からこみ上げてくるものを必死で堪えて、笑顔を作る。きっとうまく笑えてなんてない。それでも泣いてお別れするのだけは嫌だった。一也が笑い返してくれたことを確認すると、私は家の門に手をかけて中へ入る。ガチャンと閉めたあと、最後にもう一度だけ振り返った。
「一也」
「澄」
名前を呼びあって、引き寄せられるようにキスをした。これが本当に、最後のキス。離れるのが名残惜しくて……だけどこのままずっとこうしているわけにもいかず、仕方なく、ゆっくりと、余韻を噛み締めながら離れた。
「またな、澄」
「うん。またね。気をつけて帰ってね」
別れの言葉を口にして手を振る。一也はぽんぽんと私の頭を撫でたあと、悲しげな表情を残して背を向けた。少しずつ遠ざかっていく背中を、見えなくなるまでじっと眺めていた。
「ただいま」
「おかえり、澄。どうだった?」
「……っ、おか、お母さ……っ!おか、さ……っ」
ようやく玄関の扉を開けると、リビングからお母さんが出迎えてくれた。その声を聞いた途端、一気に堪えていたものが溢れ出す。玄関に荷物を置いたまま、靴も脱ぎ捨ててお母さんに飛びつき、私は子供のように泣きじゃくった。
こうして、私の夏は終わりを告げた。
(2019.08.05)
-11-