「臨也」
「何?」
「……なんでもない」
 深夜だというのに、街はまだ明るい。煌々と光る原色のネオンは、窓ガラスを隔てて溶けそうに揺らぐ。
 高級マンションの一室。その持ち主である折原臨也は、その窓を背にしてパソコンに向かっていた。静雄は黒い革張りのソファに座り、ぼんやりとその光景を見ている。夏だというのに、部屋の中は長袖でも少し肌寒いと感じるほどの気温。俺の家とは大違いだな、と静雄は思う。静雄の家には、冷房は取り付けられていない。安物の扇風機があるくらいで、だから夏場はとてつもなく暑い。
自分の部屋と臨也の部屋は別の世界みたいだ。そして自分と臨也もまた、別の世界の人間のようだ。何も分かり合えない。言葉で分かり合う前に――そういった距離を縮める行為を全て飛ばして、いきなり体温を知ってしまった。静雄と臨也は半年ほど前から、時たまこうして会ったりしていた。始まりは、臨也が静雄を抱いたこと。その後も、何度も身体を重ねたが、何故臨也が自分を抱くのか、静雄は知らなかった。

 しばしの間ぼーっとしていた静雄は、ピッという電子音で、急に現実に引き戻された。何と無く臨也の方を見ると、赤い瞳と目があった。
「ああ、さすがに寒くなったからさ」
 どうやら冷房の温度設定を変えた音だったらしい。
 ふーん、と適当に返すと、臨也はじっと静雄の顔を見つめた。
「シズちゃんさぁ、今日、なんか心ここにあらずって感じじゃない? どうかした?」
「別に……疲れてるだけだろ」
 それは嘘ではなかった。今日の取り立ての対象が、皆が皆面倒臭い輩だったからだ。しかし、原因がそれかと問われれば、そうではない。かといって他にさしたる理由があるわけでもなかった。
 臨也も納得していない様子だったが、特に問いつめる必要性も感じなかったのか、それ以上は訊いてこなかった。代わりに、少し前の話題へと戻る。
「ねえ、さっき言いかけたことって何?」
 いきなり話が変わり、静雄は何度か瞬きをする。さっきのこと、というのを思い出し、あああれか、と呟いた。迷いはしなかったが、少しの間沈黙して、それから口を開いた。
「…………『寂しい』って、言おうと」
「えー、それは悲しいなぁ。一緒にいるのに」
「寂しいのは今に始まったことじゃねぇよ、手前とこうなる前からだ」
 家族だってちゃんと自分を思ってくれているのに、静雄の胸にはいつも満たされない穴のようなものが存在していた。目の前にいるこの男といても、いくら身体を重ねても、満たされない、埋めることのできない穴。
「……寂しいなら、セックスする?」
 それを聞いて、小さく首を横に振った。
「……いや、いい」
「……そう」
デスクからソファまでの、わずか数メートルの距離が、やけに遠い。
「シズちゃん」
「何だ」
 さっきと同じような、しかし立場は逆なやりとり。
そして臨也は、
「……やめにしようか」
と、そう言った。
それを聞いても、静雄は自分が焦りだとか疑問だとか、そういったものを抱いていないことに気付く。元々決定していたことのように、すんなりと胸に入ってきた。
「何かさ、違うよね、と思って。俺たちは、こういう関係になるのを本当に望んでたのかなって」
黒い服の男は、その秀麗な顔にうっすらと笑みを浮かべた。いつもの人をいらつかせる笑みではなく、静かな笑みだった。
「俺も寂しいよ。……寂しかったよ。――だからシズちゃんを抱いたってわけじゃないんだけど」
蛍光灯は、白々と部屋を照らし出す。
「多分、……好きだと思ったんだろうね」
そうか、と静かに呟く。臨也は、静雄のその独り言にも律儀に、『うん』と頷いた。
「俺もお前を、好きだと思った……はずだ。じゃないと抱かれたりしねぇ」
「そう」
「でも何か……今のこの関係は、やっぱり、違ぇと思う、俺も」
沈黙が部屋を満たす。冷房が送る風の音、外を走る車の音、そういったものがやけに大きく聞こえる。どこに行っても、どんなに押し黙ろうとも、他人はいつもそこにいる。それなのに孤独を感じることが、とても、悲しいと思った。
「―― 一度も」
 沈黙を割ったのは臨也の声だった。
「一度も、抱きしめあったことはなかったね」
 臨也の細い身体。全身を黒で固めたその身体は、背景の闇に溶け出しそうだった。
「……そういうことを、したかった」
 臨也の切れ長の目が伏せられる。泣いてはいなかった。静雄も、同じように目を伏せた。静雄も泣いてはいなかった。ただ、これまでの時間を反芻するように、そっと伏せた。
「……俺もだ」
 全てが終わりになるわけではないのだと、静雄は悟っていた。全てが終わりになることはない。――終わりにはできない。けれど、元の喧嘩ばかりの関係には戻れないことも、当然分かっていた。
「本当は、誰かに抱きしめられたかっただけだったのか?」
 静かに、呟く。独り言だったのだが、臨也はそれに答えた。
「そうだったとして……その『誰か』がお互いじゃなかったってことなんだろうね」
「そうだな……」
 ギシリと音を立て、静雄はソファから降りた。
「手前に……そういう人がいつか見つかればいいと、思ってやらないこともない」
 その言葉に臨也は、軽く噴き出した。
「っ、はは! やっぱり、シズちゃんには敵わないなぁ」
 綺麗な顔だった。その笑顔の中に、無理や嘘は見えなかった。
 ――俺も。
 俺もそう思ってあげるよ、と、白い歯を見せながら言った。

 

 彼に、いつか最愛の人を。
 あの光る窓に、その無数の光の中に、彼を選んでくれる、たった一人がいることを。



 
 end
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