暮れた空にかかる雲は星を隠している。
眠れずにベッドを抜け出し、孤児院の屋上で一人、雲の隙間から見える変形した月を見上げた。鈍い光だが、周囲に明かりがほとんどないので、ものを認識するには十分な光量だ。

つい一年ほど前、ハッシュは最後の一人の名前を思い出した。
幼い頃、並んだ背中を追いかける夢の中で何度もハッシュを振り返っていた人だ。
苦しかった。追い付けなかった。辛かった。足の長さなんて足りない。背丈も足りない。それでも、ひねくれても、結局追い続けることをやめられなかった中の一人。

その人の名前を呼ぶことが、思い出してから今まで一度もできなかった。
好きだったようなのだ。300年ほど前の自分は、その人のことを。
その人に惚れて、死んでまた生まれてもこうして思い出すくらい。死に際に胸の中をいっぱいにしてしまうくらい。一人にしたくないと思うくらい。一人で死なせてしまうことを後悔するくらい。その人からの贈り物を、辛いときに握りしめてしまうくらい。
どうしようもなく好きだったようで。

毎度こっそり突っかかってくるその人を、最初は面倒に思っていた。
そのやりとりを楽しいと感じた時、初めて彼女が考えなしな行動をする人じゃないと気付いた。
突き放すことも、出鱈目に甘やかすこともなく。失敗しても、必ず良いところと悪いところを、客観的にみたものを教えてくれた。その上で、彼女はハッシュを誉めていた。
世の中の闇とドン底を知っているが故の辛辣さと、優しさ。
あたたかかった。
心からの辛辣は諦めの気持ちから、底のない優しさはそれまでの苦しい生から生まれたものだと知っても、あたたかいと感じた。
それらがあったから。その人が悲しいくらいに“運のない人”だったから。
“自分と同じだと、思えたから”。
ハッシュはその手を掴んでいたいと思った。

夢の中で彼女を掴めなかったのは、それが前世の在り方だったからだと気付くのにそう時間はかからなかった。
実物ではないとしても、許されないのだと思った。
ハッシュは掴んだままでいられなかった。
彼女を一人にしてしまったから。その人は責めたりする人ではない。そう、今の生で実際に会ったこともないはずの人を理解して、何故か、いつの間にか信じ、受け入れているのに。
責めてもらえれば、満足できるのか。そんなはずはない。
この手に残る罪悪感はいつまでも付きまとう。ハッシュも、その罪悪感を離そうとしないまま時を過ごす。目に見えていた。

だからまだ、呼んではいけないと考えていた。
東西南北の一つ。太陽と月が昇る方角を名前に持つその人。

もうそろそろ、進学先を定めなければいけない。兄貴分と同じ学校に進む、というのは一番楽な道に思えた。けれど同時に、それで本当に“進む”ことになるのかと、自分自身に問いかけてしまう。
ハッシュは手を開いた。
握り込んでは、開く。それを繰り返し、徐に止める。その手で目元を覆って、深く溜め息をついた。
その人を思うと、ふとあたたかさが落ちてくる。

「………た…い…」

荒んだ心証が整っていくような。でもそれは我にかえった瞬間、何もなかったかのように消えてしまうから。その度に、逃避した代償なのか、大きすぎる現実を突きつけられるから。

「…ただ…あいたいだけなのに…っ」

そう小さな声音で、絞り出すように叫ぶことしかできない自分が情けない。
情けない。
夕暮れや、夜明けの空を見る度にその人を意識してしまう。星が昇る方向に顔を向けてしまう。
太陽、月。どちらでもよかった。その人が一緒にひょっこり現れるような。そんな気さえして、でもそんなことはあり得ないから。
どうすれば良いかはわかっている。どうするのが正解なのかも答えがあった。このままでは“自分”が“滞る”。そんな確信すらあった。

あの日、幼心が覚えた恐怖は今も消えずに目の前の現実に膜を張り続ける。
前にも進めない。当然のように、その人に触れることすら叶わぬまま。



星屑の落ちる場所、呼べない名前