一言で言えば、孤児が暮らしやすい時代になった。
まだまだ偏見や差別は消えないが、その事実を社会全体が受け入れることで職や食うに困らず生きていけるように改善され飢え死ぬ子供は激減した。多分、意識レベルで人が成長したのだと思う。
子供のための施設が順次設備され火星のストリートチルドレンは過去最低数を叩き出し、記憶に懐かしいスラム街も今は存在しない。
悪い部分は今や忘れ去られ、塗りたくったような平穏な日々が繰り返されている。
300年ほど前の記憶がある身として、度々ハッシュは信じられない気分になった。生ぬるい風に当てられているような、そんな気分。
つい、平和な今がいつか壊れるんじゃないかと考えてしまう。
授業を受けているとき、腹を満たしているとき、友人とくだらない話をしているとき、風呂に入っているとき、眠りにつく前のふとした瞬間。特に時間や場所は関係なく、ふと思い出すように頭に浮かんだ。
過去の自分が今とは比べ物にもならない場所で寝起きしていたこと。スラムでゴミを拾い、それを生活の糧にしていたこと。残飯を求め食堂に通いつめていたこと。尊敬していた兄貴分が自ら命を絶ったこと。身体を鍛え、MSに乗り、自分も命を落としたこと。目指した人、好いた人より先に人生を終えたこと。
何か些細なものでも、小さいが故に手離したくないものでも、簡単に奪われることがある。奪われ続けた経験が、生を新しくした今も肌に焼き付いている。ヒリヒリと疼く。
後悔をしているわけではなかった。それでも、どうしようもなく痛く感じるときがある。

同時に、ハッシュには目の前の人に訊けないことがあった。
それは別に今の彼女との関係を壊すようなものではなかったし、きっと正直に包み隠さず教えてくれるだろうとも思っている。けれど直接問うにはあまりにも勇気が足りなかった。
細い身体を太股の上に置き、その首に額を押し付ける。決して離れていかないように阿頼耶識がない背中を抱いて、かれこれ三十分が経つ。
ふふ、なんて笑い声が聞こえてきたのはそんな時だ。

「どうしたの、赤ちゃん返り?」
「…充電って言ってください。明日からまた一週間が始まるんすよ、こういう時間取れなくなるじゃないすか」
「でも会えるよ」
「………あんたはそれだけでいいんすか」
「ううん、ハッシュみたいにバブりたい」
「何言っ…ていうかどこで覚えてきたんです。それに俺は赤ちゃん返りじゃなくて充電ですから。きっちり、一週間分ください」

昼を回ったばかりだというのに、あとどれくらいの時間を“充電”とやらに費やす気なのか。強がりで言うと、小さな手がハッシュの大きな背中に添えられた。ぽんぽんと数度に分けてリズムよく叩かれる。不意にその手も止まり、一度ゆっくりと背中を撫で下ろした。

「…うーん…。…でもやっぱり生きてるハッシュに会えれば、それでいいなあ…」

しみじみと言うものだからハッシュはつい抱きしめる力を強めてしまった。どんな顔をして言っているのか容易に想像できる。
彼女は何気なく口にしているのかもしれないが、ハッシュの胸中はその言葉にざわついた。

「…そう…いうこと言うの、やめろって」

知らなければいけないとハッシュは馬車馬のように走り回ったことがある。当時戦場にいなかったクーデリアにさえ頭を下げた。
けれど、どんな風に彼女が命を落としたのか誰も知らなかった。あの戦場において余裕があった者などいなかったし、ハッシュ自身もそうだった。それは理解していた。
ユージンやダンテさえ知らなかったのなら確実に彼女はあそこで死んだのだ。その事実だけを叩きつけられた。
ハッシュには、事実こそが苦しかった。
自分に何ができたのか。目指した人に追い付くこともできず、好いた人を守ることもできず。
三日月も彼女も、ひとりで死んだのだ。その終わるとき心に誰かがいたとしても、最終的にひとりその身をボロボロにして力尽きたのだ。
自分は彼らに何もできなかった。任された場所でひとり眠ることしか、できなかった。

彼女は成長することが偉いと言った。物事の捉え方や、MSパイロットに必要なものを持っているとハッシュを誉めた。
強くなるためなら訓練もトレーニングも当たり前だし、結局負けてしまったのに。それでもハッシュはその言葉が嬉しかった。端から見た自分を教えてくれるその言葉に年甲斐もなく喜んでいる自分がいた。
だから、貰った言葉に、任せられた場所に、それぞれ応えられる結果を出せなかったこの身が情けなかった。

「ハッシュ、手かして」

と言いながらも、ハッシュの手をさらうと力を抜くように指示を出す。太い指と細い指、それぞれを重ねて軽く絡めると彼女は満足したように微笑む。
丁度これくらいだったな、なんて彼女が考えていることを知らないハッシュはどこか不服そうだ。はぐらかされているように感じたのかもしれない。

「なにも気にしなくていいよ」
「…」
「それでもどうしようもなく気になって、“答えないと一生結婚してやらないし今すぐ別れるし俺のこと全部忘れろ”とか言うならなんでも答える」
「…えっ」
「ずっと一緒にいたいし」
「いや、あの」

「うん?」と何事もなかったように雰囲気で問いかけてくる姿にハッシュは瞳を丸めた。

「いろいろと話が飛躍したって言うか…俺が何を知りたいのか、わかってるんすか」
「いや、わかんない。でも気になることあるんでしょ?そもそもハッシュに答えられないことはないから、何でも訊いていいよ」

いろいろと訊き回ったことがバレたのかと早とちりしたハッシュは毒気を抜かれてしまった。あまりにもあっさりと宣言する彼女のささやかな笑顔で、“今”を噛み締めていると解ってしまう。

「決めたんだ。ハッシュが今まで手に入れられなかったもの…この手で用意できるものなら、なんでもあげようって」

開いた口が塞がらない。彼女がいつそれを決めたのかわからない。でも、軽い気持ちで言葉を発する人ではないことはわかっている。
その気になれば本当に彼女はなんでも用意するのだろう。そうしてきっと、その小さな手でいろんなものを掴み、捧げるようにハッシュへ渡す。
それは好き嫌いの関係から逸脱しているように思えた。

「俺はそんなの望んじゃいません。あんたは俺の親でも兄弟でもなんでもない。
悪いことをしたら怒って、良いことをしたら誉めて。…俺が拒絶しようがずっとそうやって接してくれた。だから今の俺があるんです。だからきっと、俺は惚れたんです。…だから、」

ハッシュは彼女からなにかを貰いたいわけじゃない。好きでいてくれるなら万々歳だし、他の男と会われたりすると嫉妬もするけれど、そういう話ではなくて。

「居てくれるだけで、…それだけでいいです」

渡したい。
ハッシュこそが、彼女に“何でも”あげたかった。貰っている実感は大いにあったし、癒してもらうことすらあったのに。
あれだけひとりにしたくないと思った人。放っておけないと思った人を、冷たい場所で。どうなるかもわからない状態で。たったひとりで死なせてしまったのだと思うと、どうしようもなく息が詰まった。
誰も側にいない、永遠となるはずの眠りの淵で手を握るだけでもよかった。視界に入るだけでもよかった。“ひとり”だと思わせたくなかった。ハッシュを“ひとり”にしなかった彼女のように。
自分のような存在を気にかけてくれた人がいたように、“自分なんか女としてみられない”と散々言っていた彼女に惚れてしまったハッシュがいたように。
“ひとりで死ぬ必要なんてない人であることを、証明したかった”。
兄貴分にすらできなかったこと。本当に、たったの一瞬でよかった。二人とも死ぬ必要すらなかったのに。
そんな簡単なことも、あの時代と自分たちの環境が許さなかった。健全であろうとなかろうと運が傾かなかった人間が辿り着く場所は決まっていた。
守れないならせめて。運命なんてクソ食らえだが、死ぬことが決まっていたとするならば、せめて。

「…ハッシュが痛い思いをする必要なんてないんだよ」
「それはあんたも一緒だろ」

噛み締めていた唇を指先で触れられ、そっと開く。ハッシュの血を吐くような台詞を彼女がどう捉えたのかは判然としない。ただ小さく息を飲む音が聞こえた。
それから少々の間が空いて、彼女はハッシュの首に手を回す。ぐいっと力を込めれば意図が伝わったのか、ハッシュの身体は簡単に引き倒され二人そろって布団の上へ寝転ぶ形となった。

「…少しだけ寝よう。そうすればきっと、少し落ち着くよ」
「…はい」
「喧嘩じゃないからお互いに“ごめん”はいらないよね」
「………っす」

いじけているようでいても小さな返事をするハッシュと自身に布団をかける。タブレットでタイマーをセットし、ベッドヘッドに立て掛けた。
二人とも、相手に謝ってほしくはなかったし、謝る必要性も感じなかった。少なくとも、今此処にいる二人に限っては悪い部分などないように思えた。
流れるようにハッシュの額へ髪越しに口づけると、お返しとばかりに彼も同じ動きをする。

「好きだよ」
「…俺も、好きです」

処理しきれない気持ちが落ち着いていくような気分になった。
何も考えなければこんなに暖かい場所なのに、どうして自分たちにはあんな過去があるんだろう。こんなにやりきれない気持ちを残して、生まれ変わったのは、何故。
どれだけ悩んでも答えなんて出ない。それがわかっているから、なおのこと頭が痛い。
子供っぽい要望だと思いつつも、ハッシュは手を差し出して彼女に同じものを求める。口先を尖らせたような、落ち着いてきたとはいえ何かに怒っている口調だった。

「………手、…繋いでいいすか」
「うん」
「離さないでくださいよ」
「…わかったよ」
「俺も離さないんで。絶対ですからね」
「………うん」

重ねられた手を握れば満足したのか悪かった機嫌がいくらか和らいでいく。その様子を見て、彼女は小さく微笑んで眠りにつく体勢を整える。
大きな目が瞼の内側に消えるのを待ちハッシュも瞳を閉じた。
笑った彼女が見たいのに空回っている気がして、でもこんな些細なことで笑みを溢すところを見ると何とも言えない気持ちになる。
女性特有の冷えやすい手は体温の高いハッシュに、染み入るように存在を伝えてくる。

弾幕に怯えることもない。暴力に傷付くこともない。抗うのではなく、仕返すのでもなく。
その昔に握った手は古傷だらけだった。いろいろなものを背負わされ、十代なのにも関わらず既に使い古されたような手だった。
彼女の手は苦労を強いられ虐げられてきたことを容易に想像させた。だからこそ、信用できた。

手を繋いだ彼/彼女がいい夢が見れるように。そう互いに願ったことはどちらも知らないまま、目を閉じて互いの存在と手の温度を感じ噛み締める。
部屋に二人分の静かな寝息が繰り返されるようになるまでほんの少しだけ時間がかかった。



拾い上げた距離に灯を点し、照らされた先に君がいてくれたなら。