波間を飛ぶ。

「せんぱーい」

ゴーグルを外しながらプールの端に寄る。ばしゃばしゃと絶え間なく聞こえてくる音に負けないように少しだけ声を張り上げる。

中二の夏だった。
友人のお兄さんとやらが水泳の大会に出るというので、一緒に応援に行った。その時に見たとある人のバタフライ。
地元の高校ならどこでも。そんな考えを持っていた私が岩鳶高校を選んだ理由。
水飛沫を上げながら水の中を進むその人の姿が頭を離れなかった。そんな理由。

そんな、たったそれだけだけれど、太陽とはまた違った、焼き付けられるような感覚があったから。

あの日のわくわくも、どきどきも色あせることなく。その人を見ると胸の中がふわっと軽くなる様な。初めて“飛ぶってこういうことなのかな”って思った瞬間。
泳いでるのに飛んでいる。その人は確かに、水の中を飛んでいた、と思った。



声をかけたのに反応のない怜せんぱいを、「怜せんぱい」ともう一度呼ぶ。
怜せんぱいは感覚が独特だけれど、耳が悪いということはない。考えに没頭している、とか、そういうことがあるとしょっちゅうだけれど。それ以外ではむしろ目ざとい方で、後輩の私たちのこともよく気にかけてくれる。

「ああ…すみません。どうかしましたか、名前さん」

怜せんぱいはいつも穏やかだ。

「渚せんぱいが呼んでますよーって話です。向こうでぷりぷりしてましたよ?」
「そうでしたか…っ? もう、渚くん。後輩をこんなことに使うなんて…」
「あはは…私は大丈夫ですから、早く渚せんぱいのところへ行ってあげてください」

怜せんぱいは私と一緒に肩を竦めて笑っていたと思えば、不意に笑顔を消してしまった。少しだけ改まった様子で目が合ったので、ちょっと緊張してしまう。

「名前さん、少しだけお話をしても?」
「ん…? でも渚せんぱいが…」
「渚くんはいいんですよ。それより少しだけ」
「は、はい」

促されるまま、私は怜せんぱいと同じようにプールの端に腰かけた。
先輩と後輩の、適度な距離。帽子とゴーグルを膝の上に置いて怜せんぱいを見上げる。

「もし、僕の勘違いだったら大変失礼なんですが…何か悩みがあったりはしませんか?」
「悩み…?」

怜せんぱいの言葉に私はつい瞼を閉じ忘れてしまった。
なんとも端的で、聞き逃しようのない言葉。

「…最近、タイムが伸び悩んでいるでしょう? そのことで何か思うところがあるかな、と思いまして。…しばらく経っても調子が戻らなそうだったので、こうして声をかけたんです」

せんぱいは私が言葉を発するより早く口を開き、静かな口調で今の私の状態を詳らかにしていく。

「…まさか、渚せんぱいが私に怜せんぱいを呼んでくるように言ったのって」
「ふふ、渚くんなりに時間を作ろうとしてくれたのかもしれません」

苦笑しながら種明かしをされて、私はつい閉口してしまった。隠しているつもりもなかったのはそうだけれど、それはこんなことにはならないと何故か思っていたから。
そもそも、悩みを持っていることに気づかれたことがなかったので、どうすればいいかわからなかった。

「ば、バレてた…んですね…」
「バレてたというか、みんなそれぞれ、いろいろなことがありますから」

優しく笑う怜せんぱいが小首を傾げる。

「僕でよければ、話してみませんか?」

せんぱいの優しく細められた瞳に私が映っていて、そんな澄んだせんぱいの瞳は、少しまぶしかった。

「私、ある人のバタフライを見て、…その人に憧れて、水泳を始めたんです。同じように泳げたら…どれだけ気持ちよくて、どれだけ、綺麗な世界が待ってるんだろうって。わくわくして、どきどきして。そんな世界に行ってみたいって」

怜せんぱいは「はい」と相槌を打って先を促してくれる。

「だから“私も泳いでみたい。”そう思って。でもなんか最近、タイムもあんまり伸びなくって、怜せんぱいの綺麗なバタフライと比べたら自分が本当に泳いで良いのかなって…自分でもどこから湧いてくる不安なのかわからないんですけど」

気が付いたら水泳帽とゴーグルを握り締めていた。
いつもならここまで悩んだりしない。“まあ、どうにかなる。というか、なるようにしかならない”とかなんとか、片づけてどうにかできるのに。
せんぱいを見れずに髪の先から水が滴り落ちるのを見ていた。

「…名前さんは少し、気負いすぎているのかもしれませんね」

せんぱいは少しの間の後でそんな風に言った。その言葉のチョイスが不思議で首を傾げてしまう。

「気負う…ですか?」
「僕が思ったのは、目的が変わってしまっているんじゃないか…ってことです」
「もく…てき」

小さく頷いて、怜せんぱいは相変わらず穏やかな口調のまま続けた。

「憧れたバタフライ。憧れた選手。それらを通して、見てみたい世界や感じてみたい世界を知って。けれど上手くなるにつれて、…今のように、大会や速さを目標にし始めて、少し、水泳に対する価値観が変わってしまったのかもしれません。
初めて名前さんの泳ぎを見せてもらった時、とても楽しそうに泳いでいるんだな…なんて感じました。なんて自然で、美しく泳ぐんだろうと。僕は、そんな名前さんの泳ぎを好きだと思いました」
「…怜せんぱい…」
「何を思って、今、名前さんは泳いでいますか?」

怜せんぱいと目が合う。その瞳が強く、輝いていた。

「スピードや勝敗にこだわるのも大切だとは思います。目標があって初めて上手くなれる人もいますから。でもきっと、名前さんは、自分が憧れた世界のために泳いでいる。感じたものを、感じ取ったまま楽しむために」
「…」
「僕は、名前さんにその気持ちを忘れないでいてほしいんです」

せんぱいの言葉がすっと胸の中に落ちてくる。ここ最近、何を考えて泳いでいたかなんて、思い出さなくたって頭に浮かんだ。
怜せんぱいに追いつけるように。そうして、置いて行かれないように。もっと速く。怜せんぱいのように、速く、速く、速くー…。
その気持ちがいつの間にか重しになってしまっていたなんて。
せんぱいの大きな手が頭に降ってきて、ぽん、と一度軽く撫でるように叩かれた。

「何も焦る必要はありません。性別や学年が違っても、僕たちは名前さんと一緒にいますから。名前さんは、名前さんのまま、泳いでいいんですよ」

どきりとした。なのにふと、肩が軽くなったような気がした。

「怜せんぱい、ありがとうございます」
「はい」
「わ、私、泳いできます。一回でいいので見ててください!」
「ふふ、大丈夫。ここで見てますよ」
「…! はい!」

私は怜せんぱいに頭を下げて立ち上がった。目指すは飛び込み台だ。
怜せんぱいが「忘れないで」と言った気持ち。言われて、思い出した気持ちを確かめなくてはいけない。多分、それができて初めて、私は怜せんぱいに追いつくための一歩を踏み出せる。



・・・



「れーいちゃん!」
「うわ…! っと…渚くん」
「…どうだった? 名前ちゃん。大丈夫そう?」
「はい。僕でもちゃんと力になれたみたいです。ほらー…」

渚くんに抱き着かれて一瞬視線が反れたものの、示した先には競泳水着に包まれたしなやかな体が宙を切っていた。バシャ、と飛沫が上がる。
すぐ近くで渚くんから「おお!」と感嘆の声が上がった。

「なんか、最近で一番勢いがあったね!」
「ええ。無事に吹っ切れたみたいです」

自然に見える彼女の泳ぎが僕は好きだった。同じバッタでも、凛さんや宗助さんが泳ぐのとはまた違う。僕のものとも、違う。
水の中を飛ぶのが当然で、そこにあるのがなにより当たり前で。きっと彼女に泳ぐためのきっかけを作った人はもっと自分なりの泳ぎをしていたんだろう。
名前さんしか持っていないから、こんなに美しくて、こんなに儚い。僕が好きになったのは、そういうものを体で表現できる人の泳ぎ。僕の言葉でもそんな人の力になれる。一歩の後押しをできるなんて、こんなに嬉しいことはない。

「渚くん」
「ん? どうかした?」
「名前さんは美しい人ですね」

最近の彼女は何か不安そうで、泳ぎきった後に溜め息を吐くことが増えていたのを渚くんも感じ取っていた。

「そうだね! やっぱり名前ちゃんはこう、“他のことは関係ない!”って感じが一番!」
「それだと、なんだか唯我独尊タイプに聞こえますね…」
「マイペースって意味では同じじゃない?」
「そうかもしれませんが、それだと意味合いが…」
「それにしても怜ちゃん、さっきの“名前さんは…美しい…”ってヤツ、本人の前で言ってあげなよ」

渚くんが眼鏡をくいっと上げるフリをしてニヒルに口角を上げた。いやいやいやいや。それ僕の真似なんですか? そうなんですか?

「そんなキザったらしい言い方はしていません! それに直接言ったらセクハラじゃないですか! モラルに反します!」
「そうかなあ?」
「そうですよ!」
「だとしても、今みたいな感じで言えば女の子はイチコロだって!」
「何を狙ってるんですか一体…」
「あっ、名前ちゃんが顔出した! おーい!」
「渚くんは少し落ち着いてください」

名前さんが水面から顔を上げたのは僕も見ていたので勿論把握している。息を切らしながら水泳帽とゴーグルを取って、僕と渚くんを振り返った。
大きな瞳が水面に光を当てた時のように輝いている。

「――――――――」

唇が動く。そうして、笑う。
“思い出せました”。そんな風に言っているように見えて、僕はつられるように笑った。


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