過去を捨てられない未来の男の話 | ナノ




 ――起床時間は午前六時。
 朝食は六時二十分、夕食は午後七時。入浴を済ませ、布団に入るのが十一時。 
 そのルールが破られたことは、この三年間でたったの一度もない。
 しかしそれは『私の世界』の話だ。





 特に用事のない休日ほど苦痛に感じるものはない。
 分かってはいるのに、私は今日も六時に目を覚ました。
 だるい身体を無理矢理起こし、頭痛に顔を顰めるが気のせいだということにする。
 食欲などまるでなく、しかし食べないわけにもいかないので、傍らに置いてあった食パンをトースターに突っ込んだ。
 分量をまるっきり無視し適当に淹れたコーヒーに口を付け、私は溜め息を吐いた。
 おそらく、不味いのだろうと思う。けれど私にはそれが分からない。
 すっかり食に興味がなくなってしまった。あの頃は、“あのひとがいた頃”は、二人で食卓を囲むことが何よりの楽しみだったのに。
 なんだかやりきれない気持ちになり、それを誤魔化すためだけに普段は見もしないテレビの電源を入れた。ちょうど朝の番組が始まったばかりで、女子アナウンサーの底抜けに明るい声が、今日の天気を伝えている。画面の左上のデジタル時計には、六時三分と表示されていた。
 部屋の壁に掛かる時計に目をやると、六時十三分だった。



 数年前の“あのひと”の誕生日、私は彼に赤い目覚まし時計を贈った。
 朝に弱い彼のために一生懸命考えて贈ったものだった。彼は喜んで受け取ってくれた。
 けれど寝起きが良くなったところで彼の悪い癖ごとなくなるわけではなかった。頭の良い彼にとって、遅刻をしないぎりぎりの時間を逆算するなど容易いことだったのだろう。
 そこである日、彼の枕元に置いてある目覚まし時計を十分早めた。それだけではない。置き時計から携帯電話まで、家中にある時計という時計の時間をすべて十分間ずらした。
 彼の遅刻癖は解消された。
 しばらく経って、ようやくカラクリに気付いた彼が「お前にはかなわんな」と笑っていた。
 日本中が同じ時間軸で過ごす中、私と彼だけは人より十分未来の世界で生きていた。二人きりで、別の世界を生きていた。
 私はとても幸せだった。
 その幸せが終わるなど、疑いもしないことだった。

 彼は突然姿を消した。

 何の前触れもなく、私の部屋から、彼の荷物だけがなくなった。
 あの日の、玄関の扉を開けた時の衝撃といったらない。衣類から、シャンプー、彼が使っていた箸まで、彼を思い出させるすべてが綺麗になくなっていた。テーブルの上に無造作に置かれた、赤い目覚まし時計以外のすべてが。
 私は両手でそれを抱え、一生分の涙を使い果たすかのように泣いた。


『ごめん。
 今度はきちんと十分前の世界で会おう。』


 彼は“現実”に帰ってしまった。










 どれくらいの月日が経ったのか、私はもう覚えていない。彼の存在しない時間など、私にとってはすべて無意味だった。
 広い部屋にひとりきりでいることに耐えられず、私は間もなく引越しをした。ふとした隙間に彼を探してしまうのが嫌で、手狭とも思える小さい部屋に身を置くことにした。
 必要最低限のものに囲まれて窮屈に過ごすと、不思議と心が落ち着いた。
 ここにいる限り、彼はもう自分のところには戻ってこられまいと思ったからかもしれない。

 そのくせ、未だ彼が置いていった目覚まし時計の刻を正すことができない自分がいる。

 私は今でも、彼と二人で生きた時間軸の上にいる。
 そうすればいつか、彼が見つけてくれるかもしれない。
 そんな有りもしない可能性に縋りついて何をしようというのか。自分でも分からない。
 私はきっと、この先も、現実には還れない。





 陰鬱な天気をもろともしない女子アナウンサーが、陽気に話し続けている。
 師走も四日目になりました、今日は折りたたみ傘を忘れず持参してくださいね。夜には雪が降るかもしれません。
 ああ、今日は十二月四日なのか。
 ――忘れもしない。彼の、誕生日だ。



 ――仁王君。
 あなたは“現実”でどう過ごしていますか。
 私は今日もあなたとの思い出に浸りながら、あなたより未来を生きています。

 お誕生日、おめでとう。










過去を捨てられない未来の男の話










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未来の男は、何を想う。

2011.12.7.

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