君を泣かせる話をしよう | ナノ




 遠くから、お米の炊ける匂いがして目が覚めた。
 明るく広々とした空間。顔の向きを変えると画面の大きなプラズマテレビがある。奴のこだわりの逸品だ。
 取り込んだきり散乱していたはずの洗濯物はきれいにたたまれた状態で部屋の隅に移動している。傍らには開きっぱなしの携帯電話。夕食を作れそうにないから外で食べてきて、という内容のメールは未送信のままだった。
 自分は、ソファーで眠ってしまったらしい。

「まったく、体調が悪いなら寝室できちんと眠りなさいとあれほど……」

 台所の方からそんな声が聞こえて、視線をずらすとそこには呆れ顔の旦那が立っていた。
 壁にかかった時計に目をやると、時刻は六時半より少し前。どうやら奴は普段より早く帰宅して、残っていた家事を片付け、ソファーにうずくまる嫁(つまりウチのことだ)に毛布を掛けてくれたらしい。文句を言いながらも、奴の表情には心配の色が隠しきれずに存在していた。
 ああ、そうだ。自分は確か買い物に行って、帰ってきて洗濯物を部屋の中に入れて、少し休息を取ろうとソファーに横になったのだ。そのまま眠ってしまったのは誤算だったけれど。

「夕食、食べられそうですか?」

 そう聞かれた時、奴が似合いもしないエプロンを身につけていることに気付く。奴がキッチンに立っていた? コイツが? 大惨事になっていやしないだろうか、と思わず顔を顰める。
 だから外で済ませて来いと言いたかったのだ。送信できなかったのは自分の責任だけれど。

「……その表情から察するに、私が台所に立つのが不服なようですね?」

 不服じゃのうて、不安なの。このクソ不器用め。

「あのね、私だって炊飯器の使い方くらい知っていますよ。それ以外は買ってきました。あなたに出すお粥もレトルトです、残念ながら」

 なるほど。どういう意味の残念ながらなのかは知らんが、とりあえずキッチンは無事らしい。奴もついに身の程をわきまえたか。
 奴の料理はなんというか、危なっかしいのだ。置いてある包丁がウチに合わせて左利き用なのもあるが、それ以前の問題にも思える。あえて言いはしないけれど。
 決して味付けは悪くないのだが、本当に奴は包丁のセンスがない。本人はそれが悔しくて仕方ないらしいが、長けているところはその他にたくさん持っているのだから構わないだろうと思う。
 自分が思うに、奴は料理より性格に難がある。これも、あえて言いはしないけれど。
 なんとか身体を起こし、テーブルまで歩こうと立ち上がると肩を支えられた。どうしたんよ比呂士さん。なんか今日、優しいんやない? そうからかうようにして尋ねると、奴は何も言わなかった。普段ならあの憎たらしい張り付いた笑顔で「失礼な、私はいつだって優しいでしょう?」なんて言うくせに。
 もしかしたら本当に、本当に心配をかけたのかもしれない。少しだけ申し訳なく思った。

「食べられそうなものを少しだけでいいですから、食べてくださいね」

 テーブルの上には近所の惣菜屋で買ったと思われる金平ゴボウとポテトサラダが乗っかっている。最近何を食べても吐いてしまうウチのために、せめて油ものではない品を選んできてくれたのだろうということが簡単に想像できて、また申し訳なくなった。どうせ自分は食べられないのだから、比呂士が好きなものを選べばよかったのに。
 いただきますと手を合わせ、長さの違う揃いの箸(つまりは夫婦箸だ。結婚祝いに柳が贈ってくれた)をそれぞれ手に取った。粥の匂いにうっかり眩暈がしたが、なんとかこらえてサラダを少しつつく。状況を察した比呂士が、粥の入った茶碗を離れた場所に置いてくれた。
 額に手を添えて、「微熱もまだ下がっていないようですね」。――やっぱり今日の比呂士はおかしいくらいに優しい。

「変な病気じゃ、ないといいんですけれど」

 そう言って金平を口にした奴の手が、ふと、止まった。なん、どしたん、驚いた顔しよってからに。

「いいえ、たいしたことではないんですけれど」

 じゃあ言うてみんしゃいよ、聞いちゃるけん。
 別に興味があったわけではない。ただ、今のこの比呂士と話していたい気分だった。
 けっしてうっとうしくない、心地良い優しさ。ぬるま湯の浴槽に浸かったあの感じに似ている。

「……このお惣菜屋さんね、あなたと一緒に住む前に、よく使っていたお店なんです」

 うん、知っとうよ。

「特に金平は好きで、よく買って食べていたのですが……久しぶりに食べてみると、味に違和感を覚えて。おいしくないわけではないんですけれど」

 比呂士があまりにも不思議そうな顔をするものだから、ためしに食べられそうなひとかけらを口に放り込んでみた。
 自分も一人暮らしをしていた時、家事が面倒になると通っていたからここの味はよく覚えている。一度噛むと、口の中に懐かしいあの味が広がった。……変な味は、しない。あの頃のまま変わっていない。違和感なんてない。お前、味覚老けたんちがう?

「そうでなくて……あなたの味に慣れてしまったんですよ」

 ウチの?

「ええ。あなたの作る料理、最初の頃は少し口に合わないものもあったのに……気付けば、すべてをおいしく味わえるようになっていたんですよね」

 人の味覚は変わるのですね、と目の前ではにかんで笑う自分の旦那を見て、なんだかとても――愛おしく思った。
 いつもチクチク文句を言ってくるくせに、どうして今日に限ってこんなにも優しいのだ。
 今日、ウチは、比呂士を泣かせてしまうかもしれない大切な話をしなければならないというのに。

「雅さん? また体調が悪いですか?」

 比呂士が顔を覗きこませてくるものだから、こちらが泣いてしまいそうになった。
 歯に力を入れて耐えると、一度箸を置きまっすぐに比呂士の目を見つめた。眼鏡の向こう側に隠れているきれいな瞳。ウチが奴に魅かれた理由のひとつだ。

 なあ比呂士、今日、病院に行ってきた。

「……ええ」

 そんでな、こっから先の話を聞いても、絶対泣かんって約束して欲しいんやけど。

「……はい」

 奴が目をそらしたら話すのをやめてしまおうと、こっそり思っていた。けれど奴は、逃げなかった。“逃げないでいてくれた”。
 だから自分もそれなりの覚悟をしようと決めた。
 どれくらいの覚悟が必要なのかは知らない。途中でへこたれるかもしれない。泣き喚いて、嫌だと叫ぶかもしれない。
 ――でも、比呂士が傍にいてくれたらきっと平気だ。

 なあ、比呂士。





 ウチのお腹に新しい命が宿ってるって言うたら、お前さんどうする?





 約束を破って、奴は泣いた。
 涙を流して喜んでくれた。










******
良い夫婦の日記念(大遅刻)

2011.11.26.

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -