爪痕 | ナノ
「雅治に首輪ば付けたか」
どのような思考回路を以てしてその結論に辿り着いたのかは知ったこっちゃないが、千歳がそんなふざけたことを言った時まず最初に感じたのは怒りでも呆れでもない。どちらかといえば落胆や脱力といったようなものに近かった。
奴が突拍子もなく馬鹿なことを口走るのにはすっかり慣れっこになっていたから、いつものとおり嘘つきの仮面を被ってやり過ごす。
普段ならそこで終わるのに、今日の千歳はそうではなかった。
「っ、冷た」
「はは、雅治はぬくかね」
奴はその健康的な褐色の肌に似合わない冷えた指先で、俺の首元にそっと触れた。嫌だと身体を捩ってもやめるどころか面白がって放してくれない。大きな掌を下顎に移動させ、じゃれるように慈しんだ。
「擽ったいんじゃけど」
「『にゃーん』っち鳴いてみんね、ほら、にゃーん」
「死ね」
「我儘な猫さんやね」
少しの間俺の髪を楽しそうに弄っていたと思ったら、その瞬間、俺は抱きしめられていた。そのままのしかかるように体重をかけてきて、あっさりと倒れこんでしまう。
見えるのは天井、感じるのは奴のシャンプーの匂いだけ。
――目の前にいる人間は普段どおりにへらへらと笑っているのに。
「俺は飼い猫より、なかなか人に懐かん野良猫ん方が好いとうと」
「知っとうよ」
「ばってん、雅治が猫なら飼ってみたかね」
有無を言わせない雰囲気を、その表情から感じた。
「……ええよ。首輪付けても」
「え」
「飼ってみたいんじゃろ?」
俺は左手を伸ばし、奴の頬に添えた。
他人の体温というのは、こんなにも寂しいものであっただろうか。
千歳に俺のすべてを委ねるように、目を閉じた。
静かに時間だけが流れていく。
僅かながら人のあたたかさを取り戻した千歳の指が、ぐっ、と喉仏の横に食い込む。気管を締め付ける力がどんどん強くなっていくのを感じる。息はできず、頭もくらくらする。
なぜだかそれが、ひどく心地いい。
――時間など、このまま止まってしまえばいいのに。
「……シャワー浴びて、顔洗ってきなっせ。雅治」
その手が離れた瞬間に見えたのは、見慣れた気の抜けた笑顔だった。
浴室にある小さな鏡に自分の姿を映した。
鎖骨の上には先日千歳が付けて消えかかった鬱血。そして喉には、先程付いたばかりの爪痕が残っている。
俺も、もしかしたら千歳に飼われたかったのかもしれない。
そうされることを願っていたのかも、しれない。
それが事実であろうがなかろうが、俺は今日、奴の前から姿を消すことになる。
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「そばにいて」「待ってる」と素直に言えない二人。
2011.6.16.