君を恋ふる | ナノ
久々に見る風景に思わず、ほう、と溜め息を吐いた。
見慣れていたはずの校舎、毎日潜った校門、土を踏む感触まで。すっかり自分の中で『母校』という認識になってしまったその場所は自分がいた頃からさほど変化はなく、何もかもが懐かしい。
空気の味なんて分からないのに、それさえ確かめるように大きく深呼吸をした。
高校を外部受験した自分にとって、この学校に残る思い出なんてたった三年間分だけだ。なのにひどく恋しいのはなによりテニスという生き甲斐と、絆がそこにあったから。医者を志すにはもっと上を目指さなくてはいけなかったために泣く泣く内部進学を諦めたのだが、本当はそのまま高等部に上がりたかった。
父はきっと家業を継ぐことを強制などしてはいなかった。話せば分かってくれたはずだ。ただ私自身それを義務だと感じていたし、他にこれといって目標もなかったから、親が“あくまで用意しただけ”の選択肢をレールだと勘違いしてその上を歩いてきたのだ。
今の生活はそれなりに充実しているし、自分の人生に悔いはない、けれど。
それでもどうしてだか、ふと思い出しては輝かしかったあの頃に想いを馳せていた。
惰性で続いていた関係。メールアドレスの変更を知らせる連絡だけでかろうじて切れずにいたかつての仲間の一人に電話を掛けたのは気まぐれだった。
プルルルル、という機械音が五回。六回目のコールでそれが途切れ、しばらくの沈黙。
『…………ヒロシ?』
「お久しぶりです、丸井君」
『おおーやっぱヒロシじゃん! お前番号変えてなかったんだな!』
「ええ、丸井君も」
十数年振りに聞く彼の声は、不思議とすぐ耳に馴染んだ。
下手に余所余所しくなることもなく、軽く挨拶を交わしたあとはただひたすら他愛のない話で盛り上がった。今どんな仕事をしている、どういう毎日を過ごしている。ありきたりな話題に面白さを感じたのはやはり気の置けない相手であったからだろう。高校時代、否、それ以上の空白など最初からなかったかのように長話をした。
それで、近況報告をしていた流れで結婚をすることになった旨を話すと、祝いも兼ねて当時のメンバーで集まろうと丸井君が提案してくれたのだ。
もう何年も会っていない、友人と呼んでいいのかも悩むかつての『仲間達』。大丈夫だろうかと心配すると、彼はまだかつての部員と連絡を取っているらしい。一部の人間は連絡先を知らないが、幸村君に聞けば大丈夫だろうということになった。
「……いいですね、そうしましょうか」
『どうしたよ、気ぃ向かないならやめとくけど』
「いえ、そうでなくて。……嬉しくて」
『何オマエ、ちっと会ってない間に老けたんじゃね?』
「ふふ、ひどい言い草」
懐かしい名前に思わず顔が綻ぶ。
今、電話越しに会話を交わす丸井君だって、私の知らないうちに大人の顔付きになったのだろう。
皆元気だろうか。幸村君、真田君、柳君、ジャッカル君、切原君も。
――そこでふいに、どうしてだろう、違和感を覚えた。
「……ねえ、当時のメンバーって、七人……でしたか?」
『そうだけど? なんだよヒロシ、変なこと言うなよな』
「いえ、すみません……誰か足りない気がしたのですが。気のせいみたいです」
『なら良いんだけど。ストレス溜まってんのかって心配しちまった』
それからまた少し中学時代の話をして、丸井君は日程が決まったらまた連絡をすると言って電話を切った。変わりのない毎日の中に、待ち遠しい予定がひとつ出来た。
それにしても、一瞬頭の中に響くように残った違和感は一体何だったのだろう。
当日である今日、予定より少し早く着いた私は少しだけ校内を歩こうと思い立った。
北門から中に入り、東へ歩く。
そうだ、一号館には確か幸村君が大事にしていた屋上庭園があった。あれはまだ健在だろうか。吹き抜け廊下の間に花壇があって、その先に二号館。そして、
テニスコート。
いつもすぐ傍にあった喧騒が聞こえないことに寂しさを覚える。
こんなに、狭い場所だっただろうか。あの頃は果てしなく広い空間に思えたのに。私が大人になったからなのか、もしくは、遠い世界の話になってしまったからか。どちらにせよ寂しい。
季節外れのあたたかい風が、ふわりとそばを駆け抜けた。
「……?」
先程まで誰もいなかったコートの真ん中に、ぽつんと一人、佇む人間がいる。
自分も昔袖を通した辛子色の服装に身を包んだ少年。後姿しか分からないが、すらりと伸びた手足は病的なまでに白い。平均よりやや長め、不思議な色をした髪は陽の光を浴びると虹色に輝き、それが後ろでひとつに結われている。
「……あの、今日はテニス部はお休み、ですか?」
彼の着ているものは確かに立海テニス部のユニフォームで、けれどラケットを手にしていないことに疑問を持ち、気が付いたら見ず知らずの少年に話し掛けていた。
私の声に反応した彼がおもむろに振り向いた。鋭い目付きとは対照的に長い睫毛が揺れる。その奥にある瞳は黄金色をしていた。全体的に色素が薄いのかもしれない。
中性的な顔、儚い表情。
――知らない。なのに、この胸のざわつきはなんだ。
「あの、」
「……本当は、いかんのじゃけど」
彼はまっすぐとこちらを向き、少しずつ近づいてくる。ほんの僅か口の端を上げて、目を細めた。
――この妙な口調と、へたくそな笑顔を、私はかつてどこかで見たことがなかっただろうか。
「親友が、結婚するって聞いたけん、ちょっとだけ会いにきたん」
あと数メートル、あと三歩分、二歩分、あと……。
私の目の前で立ち止まった彼の身長は私よりも少しだけ低い。
目が――離せない。
「……あなたはここの生徒、ですか?」
「俺な、ダブルス組んどったん」
まるで噛み合わない会話も、不思議と不快に思わなかった。
初めてじゃ、ない。私は確かに“この感覚”を知っている。けれど、どこで、どうして私は知っているのだろう。
欠片すら思い出せなくて、ずきりと頭に痛みを覚える。
「俺なんかがおったら駄目な場所だったと思う。でもみんな受け入れてくれた。楽しかった。最後は負けてしもたんじゃけど、それでも……幸せだった。本当に本当に。みんなもう忘れてる。思い出そうとしてもできんことも知ってる。けどどうしても伝えたかった」
ねえ、『あなた』は誰?
「……ありがとう。会えてよかった、やぎゅう」
待って。
ねぇ待って、待って!
あなたは――
「……し、ヒロシ、おい!」
ぐわんぐわんと耳鳴りがしていた。
誰かが私の名を呼ぶのが聞こえて、ふと我に返る。
「……丸井くん」
「どうしたんだよまったく、こんなとこで。主役が来ねぇと始まらねえだろ」
テニス部員の掛け声を聞いているうち、だんだんと頭痛が遠のいていくのが分かった。
コート内で練習に励む現部員達が着ているそれは私の頃のものとは違うデザイン。ああ、そういえばユニフォームが変わったのだといつか誰かに聞いた記憶がある。
なんだかとてつもなく長い夢を見ていたような気がする。どうしてだろう。私は今、どんな幻を見ていたのだろう。
疲れているのかと聞いてきた丸井君に大丈夫だと返し笑顔を作る。目立つ赤い色をしていた彼の髪は今はすっかり暗めの茶色に落ち着いており、顔付きも体格も私の知っているものとはずいぶん違っていた。そのなかに、僅かながら私の見知った面影が残っている。
腕の時計を見ると約束の時間はとうに過ぎてしまっていて、申し訳ない事をしたと思った。
「……ねえ、そういえばこの辺に、タイムカプセルを埋めませんでした? 中学生の、頃」
「あー、そんなこともあったな、懐かしい」
「女々しいことをしましたね」
「中学生なんてそんなもんだろぃ」
急にそんな記憶がよみがえって、笑った。
もしその存在を思い出せなかったなら、忘れられたタイムカプセルは一体どうなってしまうのだろうか。少し寂しい気持ちになる。せめて掘り返すその日までは覚えていようとこっそり心に決めると、突然丸井君が視界から消えた。
私の足元の辺りに座り込んでいる。
「……丸井君?」
「なあ、せっかくだから掘ってみねえ?」
「ですが、不審者に見えませんか?」
「すげぇ今さら」
「それもそうですね」
その場にしゃがみ土を触る私はスーツを着込んでいるのだけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
硬い土と格闘して数分経った頃、それらしい箱を見つけた時は二人で歓声を上げた。年甲斐もなく、あの頃に戻ったように楽しく浮かれ気分だった。
二人とも、せっかくだから皆で開けようと口では言いながら結局は幼い好奇心が勝った。頑丈に閉められた蓋に二人で手を掛ける。
「行くぜ……せーのっ!」
箱の中身はとても素敵な宝物でした。……なんてことはなく、中学生らしいと言えば聞こえは良いが、馬鹿みたいにつまらないものばかりが入っていてまた笑った。
恐らくぼろぼろになったテニスボールを詰めたのは切原君だ。短気で手に負えなかった彼が実は相当な努力家だったのだということくらい私でも知っている。
これは真田君、これはジャッカル君のものだろう。幸村君に柳君に丸井君、これが私が埋めたもの。それから――
「……これは?」
箱の底の方に見つけた一冊のノート。
泥を払った指先で触れるとそれはあまりにも手に馴染んだ。不思議に思いぺらぺらとめくると、中身は真っ白で。
「……なんでしょうか、これ」
「お前じゃねーの? ほら、あのときよく書いてたじゃん。詩とかポエムとかそういうの」
「もう忘れませんか?」
「やだよ、一生の笑いのネタにしてやるんだから」
確かにそういうものを好んで書いていた時期はあったけれど(あの時の私は若かったのだと自分に言い訳をする)。だとしたら万年筆で書いたような気がするのだが、こんなに早くインクが褪せてしまうものなのだろうか。
それにしても使った形跡がなく、劣化はしているがおそらく新品同様にきれいなものだったのだろう。どのページにも何も見つけることができないまま、最後の一枚をめくった。
「……あ……」
途端、目頭が熱くなる。
「…………ヒロシ? おいヒロシ、大丈夫か?」
「……何か、」
今、何もないはずのこのページに、何かを見つけた気がするのに。
「何か、たいせつなこと……忘れてしまっている気がして……今この瞬間だけ思い出したのに、掴むひまもなくまたどこかに行ってしまったんです。本当に本当に大切で、大事にしていたはずなのに……それがなんだったのかも分からない」
私は今、どうして泣いているのだろう。
何を失くして、何が悲しくて、何がこんなに寂しいのだろう。
ひとしきり泣いてしまうと、丸井君は困った素振りを見せずに笑い掛けてくれた。良い友人を持ったことを誇りに思い、私はようやくかつての友人達の待つ場所へと歩む。
彼女はどんな人なのかと聞かれて、とても綺麗な人ですよと答えると肘で突かれてしまった。
きっと私はこれからもっと幸せになるのだろうなと、なんとなく思った。
君を恋ふる
――そう、本当は、目に見えるものも見えないものも残してはいけない決まりだったのだ。
かつて通っていた――記録には残っていないが、俺は確かにそこに“存在していた”――学校を目の前にして、懐かしさより先に恋しさを覚えた。
ゆっくり歩き、中庭独特の赤土の匂いを楽しむ。あの場所もこの場所も、前のままだ。すべて覚えている。みんなは忘れてしまっているけれど。
なんだか柄にもなく切なさを感じながら、いちばん思い出深い場所へと来た。
テニスコート。
“八人”で戦った場所。
うっかり涙腺が緩みそうになって、これではいけないと頬を叩く。
今日はお礼と祝いの言葉を言いに来たのだ。しっかり表情を作っておかねば。ずいぶん世話になった俺のパートナーが、もうすぐ結婚するらしいのだ。
本当は、会うことは許されていなかったのだけれど。
卒業時に一緒に埋めたタイムカプセルの箱には、柳生からもらったノートを本人には内緒でこっそり詰めた。
どうやら柳生は俺に好意を持ってくれていたらしい。くさい言葉ばかりが並ぶポエムノートは、すべてのページが恋愛の詩で埋まっている。奴なりの告白、ラブレターのつもりだったのだろう。きっと他の人間にやったら大失敗に終わるだろうが。
だからこそ、結婚の知らせを聞いた時は本当に嬉しかった。柳生が惚れた相手だ、悪い人間のはずがない。なんて。
なあ、柳生。
お前はもう俺が誰かなんて忘れてしまっているだろう。どころか、柳生の中では“なかったこと”になっているのだろう。
それでも俺は構わないのだ。
俺がその分、覚えているから。忘れる日などないくらい鮮明に覚えているから。共に過ごしたあの日々を。
なあ、柳生。
実はノートを埋める時、ほんの少しだけ悪戯をしたのだ。
本人には告げていない、伝える気もなかった告白の返事を、最後のページにこっそり書いた。今じゃもう消えてしまっているけれど。
久しぶりに会う十数の年を重ねた彼は、予想以上に男前になっていた。
背もあれから少し伸びたのか、ほとんど変わらなかった目線が今では見上げなければならなくなっていて、少しだけ悔しかったけれど。
顔を見ることができて、本当に嬉しかった。
奴の表情を見る限り、彼は心の底からさっぱり忘れてしまったわけではないのだろうと思ったから。本人も知り得ないどこか、深層心理で、俺を覚えてくれているのだと。
それだけでじゅうぶんに嬉しかった。
ありがとう。
さようなら。
俺も元いた場所へと戻ろう。
ほんの一筋だけしずくをこぼし、俺は帰るべき道を歩き始めた。
『ありがと、俺も好き』
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消されてしまった思い出の話。
パラレル難しい……。
2011.5.16.