影 | ナノ
行為を終えた後、柳生は俺の方を一度も見ないままさっさとシャワーを浴びに行ってしまった。先程まであんなに激しく求めてきたのが嘘みたいに思えるほど情事後の柳生は淡白で冷たい。これがいつものこと。
大体週に一度、今日のような日が存在する。キャパシティを超えた柳生が俺を抱く日。俺はただ黙ってそれを受け入れる。
俺は柳生に抱かれる。
だが、柳生が抱いているのは断じて“俺”ではない、のだ。
柳生が丸井に対して、何か特別な感情を抱いているのであろうことに気付いたのはいつのことであったか。
たとえば朝練の途中、たとえば合同体育の時間、たとえば俺が借りっぱなしになっていた辞典や教科書を取りにB組の教室に来る時。奴の瞳はいつもどこか遠いところを見ていて、その先には必ず丸井が存在していた。
年相応な丸井に対して奴は幾分か大人びていたから、最初は保護者的目線に近いなにかだと思っていた。しかしそれにしては妙なのだ。異様なまでに過保護なくせに決して干渉はしない。近付きたがるくせにその分だけ遠ざける。
ただ離れたところから丸井を見ては、歯を食いしばり拳に力を入れるだけ。そのたび哀しい表情をするくせにその場から動こうとはしない。
少々いきすぎた友人間の情愛だとしたって、違和感が纏わりつく。
ああ、なるほど。
奴は絶望しているのだ。恋という名の絶望を。
俺が柳生に「俺のこと抱いてみんか」と言ったのは興味本位だった。
その日はたまたま部室に俺と柳生の二人だけが残った。帰り支度を手早く済ませ扉に向かう柳生に、そう言葉を投げたのだった。
ほんの僅か動きが止まり、そして、直ぐに振り向いた柳生の顔は不愉快の一色に染まっていた。
「……なんの冗談ですか?」
「じゃけ、俺を抱いてみろ、って。冗談なんかじゃなか」
「馬鹿馬鹿しい」
「溜まっとんじゃろ? フラストレーション、っちゅーやつ。必死に紳士の振りしとるけど俺には分かるぜよ」
「くだらない話に付き合っている暇はありません。帰ります」
「ふーん……」
少し揶揄っただけのつもりだった行為が、奴を相当怒らせる結果になってしまったらしい。柳生はただ蔑むような目でこちらを見たあと、何も言わずにくるりと背を向けてしまった。
ロッカーに行儀悪くもたれかかる俺は、それをなんとなく“面白くない”と感じた。
無意識に、背中を追い掛けて。
奴がドアノブに手を掛けた時、その腰に自分の腕を巻きつけた。
「……っ、仁王君、いい加減に」
「『なぁ、ヒロシ?』」
一瞬、奴が動揺で怯んだのを、俺が見逃すはずもなかった。
「……やめなさい、仁王君」
「『ヒロシは俺のこと嫌い?』」
「ですからっ……!」
「『なぁ、ヒロシ』――」
柳生の身体が、びくびくと震えているのが分かる。
俺は振りはらわれないように必死にしがみついていたが、奴は乱暴に引き剥がそうとはしなかった。
丸井の姿で、声で。たったそれだけで奴はこんなにもちっぽけな人間になるのだ。なんだかひどく可笑しくて、それでいてなぜか虚しくもあった。
「『ヒロシ。――抱けよ、俺のこと』」
――何かが途切れる音を、微かに聞いた気がした。
その日以来、柳生は壊れてしまった。
本来は排泄のみを目的とする部分に、熱を持ち昂った柳生のそれを挿れがむしゃらに掻き乱す。一心不乱に腰を揺すぶりその都度傷付いたように顔を歪める奴に、俺はただ丸井の声で喘ぎ返した。
初めて受け入れた時の尋常でない痛さはすっかり忘れてしまったのに、沸きあがった感情だけは今でも鮮明に覚えている。
寂しい、と。
切ない、憎らしい、苦しい――いとおしい、と、そう俺は思ったのだった。
このまま奴を絞めつけて、殺して、俺も死んでしまいたい。
そうか、これが所謂“絶望”か。
嘲笑が漏れそうになる口元を必死で押さえて、ただ行為に没頭した。
柳生を壊したのは俺。
そしてまた、俺を壊したのも、柳生。
ああ、どうして後悔というものはいつも、戻れないところまで来てからでないとできないものなのか。
シャワーの音を遠くに聞きながらだるい身体を起こす。
回を重ねるごとにこの時間が長くなっているのは、気のせいではないのだろう。
――柳生の、自己嫌悪の、時間。
柳生が、シャワーを浴びたあとこっそりトイレで吐くのを俺は知っている。
代替品でもいいと思った。柳生が楽になるのなら、人形にも道化師にもなってやる。ただストレスを発散させるためだけの肉便器だって構わない。そう思っていたのに、柳生にとってはそれだって苦痛でしかなかったのだ。
柳生にとって俺は、丸井の代わりでも紛い物でも、“捌け口”ですらなくて。
俺を抱くたびに膨らむ罪悪感を抱え、それでもこの関係をやめようと言えない柳生は本当に馬鹿だと思う。
救いがないことなんて双方が知っている事実だし、俺が切り出せばいいのかもしれないが、決してそうしないあたりで俺も結局依存しているのかもしれない。
愚かにも、心が手に入らないなら身体だけでも、などという狂った願望を抱く程度には。
ふいに、傍らに置かれた携帯電話が小刻みに振動を始めた。黒くシンプルなデザインであるそれは今まで一度も乱暴に扱った形跡がなく、新品同様に綺麗だ。
勿論俺のではない、柳生の携帯だ。
柳生と身体を重ねた後のたった一人でいる時間に、柳生と誰か他の人との繋がりを知るのがいちばん嫌だった。せめてこの瞬間だけでも独占したい、と考えてしまうのが我侭だってことは理解している。それでも現実に背きたくて俺は毎回耳を塞ぐ。
静かに“嵐”が去るのを待つ。どうか早く、早く鳴り止みますように。
いつもより長いバイブレーションに気が遠くなり、この際投げ捨ててしまおうかと少し離れたそれを引っ掴む。腕を振り上げた時、モニターに映る名前が、ちらりと視界に入ってしまった。
――『着信中 丸井ブン太』。
……どうして。
今までこんなこと一度だってなかったのに。
まさか。でも違う、もしそうであるなら柳生は今ここにいるはずなどない。じゃあなんで、どうしてドウシテどうして。柳生、ねえ、ドウシテ?
心臓に錘が乗せられたかのように急に息苦しさを覚える。嫌だ嫌だ、見たくない。頼むから、早く目の前から消えてくれ。
そう思う気持ちとは裏腹に、俺は震える指で通話ボタンを押していた。
もしもし、と、よく知る声が携帯から流れる。
……何をしているんだ、俺は。
けれど一度行動してしまうと止まらないのだ。まるで俺と柳生の中途半端な肉体関係のように。
――大丈夫、俺は詐欺師の仁王雅治じゃないか。
そう自分に言い聞かせ、一度咳払いをしたあとそれを左耳に押し当てた。
「……もしもし?」
『もしもし、ヒロシ? 出るの遅かったけどなんかあったわけ』
「すみません、少々取り込んでいたもので。何か急用でも?」
丸井の声が聞こえると、その言葉が頭の中でぐわんぐわんと重く響く。
冷静になれ、大丈夫。今この瞬間“私”は“柳生比呂士”なのだから。
『……急用っつーわけじゃねーんだけどさ』
「どうしました?」
『……あー……』
基本的にテンションが高い方に分類される丸井が、なぜだかとても煮え切らない返事をする。普段と様子が違っているのだということは電話越しにも伝わった。
――嫌な予感がする、なんて安っぽくて使い古された言葉がいちばん最初に頭に浮かんだ。嫌だいやだイヤダ、聞きたく、ない。
『……ヒロシってさー』
ニオウのこと、スキだったりする?
たった今、手のひらにおさまるこのちっぽけな機械の向こう側の人間が発した言葉の意味が、分からなかった。
「……は?」
『だってほら。結構一緒にいるし、仲良いし』
そんな夢物語――本当はどんな幸せな夢でだって見られないことくらい知ってる――を、どうしてコイツは簡単に口にしてしまうのだろう。
柳生が、俺を、好き?
ありえない。そんな馬鹿馬鹿しいことが現実で起こるはずがない。柳生が好きなのは俺みたいな暗くて捻くれていて性格の悪い人間じゃない。愛想が良くて敵を作らないタイプで、食事の時に誰よりも幸せそうな表情が出来る奴だ。
――お前なんだよ、丸井。
「……まさか。嫌ですよ、あんな面倒な人」
『うわーひっでー。否定はしねーけど』
「でしょう?」
自分に言い聞かせるように、誤って目からなにかが零れてしまわないように、必死に柳生の口調で笑った。奴は絶対にそう思っているだろうし、実際に聞かれたらこう答えるのだろう。
柳生は何をまかり間違っても俺に惹かれるはずなどないのだということは、自分が一番よく分かっているのだ。
『そっか……それならいいや』
安心したように溜め息を吐く丸井は、きっと今とても穏やかな顔をしているのだろうと思う。イリュージョンを使ったって真似のできない、丸井独特の表情。たくさんの人を愛し、たくさんの人に愛されて、のびのびと真っ直ぐ育った彼の顔。
これ以上は踏み込んではいけない気がする。
分かっている、頭では分かっているのに身体がいうことをきかない。
考えられる可能性はふたつあって、そのうちのひとつをどうしても否定したい俺がいた。だからといってこれがもう片方の可能性であるなら、“丸井にも救いがなくなってしまう”。
頼むからどちらも違うと言って。本当はどんな言葉も聞きたくないけれど、お願いだから、お願いだから。
『……ヒロシ、あのさ』
――なあ、丸井。
『俺……仁王のこと、好きかもしんねぇ』
“辛い目見るんは俺だけで十分なはずじゃろ?”
「……そうですか」
『……驚かねーの? つーか引かねえの?』
「引いてほしかったのですか?」
『そうじゃねえけど……』
ああ、本当に、今日ばかりは、柳生のシャワーが長くてよかったと思う。これを聞いたのが柳生じゃなくて、よかった。ただでさえ辛い想いをする柳生をもっと苦しめることにならなくて……よかった。
必死にこらえていた涙はついに溢れ出した。
落ち着け、俺は、“私”は今柳生で、紳士で、でも、“本当の柳生”ならどう答える?
声が震えないように、それだけに神経を遣いながら必死に言葉を探した。
この際、どんなキレイゴトでも構わないから。
「貴方は異性だとか同性だとかの枠を超えて、“一人の人間として”仁王君を好きになったのでしょう? 何も悪い事などないではないですか」
――精一杯の笑顔で、そう告げた。
はっきり言って魔がさしてしまったのだ。
二人とも不幸になってしまえ、と。
俺と同じだけどん底を味わえと。
だからこそこんな、柳生が絶対に考えもしないような――少なくとも、丸井に対しては絶対――言葉を吐き捨てた。
『……俺、ヒロシはそういうのすっげーうるさいと思ってた』
「おや、心外ですね。確かに同性を好きになるパターンは珍しいですが、決して変なことではありませんよ」
『あのさ……応援してくれとは言わねえからさ、見守ってて。あと、振られたら慰めてな?』
「できるだけ吉報を聞きたいものですね」
『うん、それだけ。なんか元気出たわ。サンキューな』
「お役に立てたのなら何よりです」
『……なんつーか、ヒロシに相談してよかったわ。ありがと』
――ごめんなさい。
でも、本当は反省なんて、これっぽっちもしていないんだ。
丸井が嬉々とした様子で電話を切るのを聞き届けた途端、腸がぐるぐると音を鳴らして活発に動くのを感じた。
いつも自分でできるだけの後処理をするようにはしているが、腹痛を伴わなかった試しがない。
柳生には頼めない。頼みたくない。心が痛そうな哀しい表情なんて誰が好き好んで見るか。
だからといって中に出すなとも言えない。
アイツは優しいから、本当に好きな奴なら大事に大事に扱うのだろう。
あんなに余裕のない柳生なんて俺しか知らないままでいい。誰かを疵付けない為に、そして、柳生にとっての自分の位置を思い知るために。
どれだけ丸井の振りをしてもやはり俺は丸井にはなれないのだ、と。
シャワーの音はまだ鳴り止む気配がない。
こんなに近くにいるのに、遠い。
俺は柳生に触れられない。
随分前から知っていたことなのにようやく気付かされたように思えて、ひどく切なくて、あまりに腹が痛くて、俺はベッドにうずくまり一人泣いた。
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丸井に片想いする柳生。
仁王に片想いする丸井。
すべてを知ってしまった仁王。
2011.5.6.