私が彼女を食べた日 | ナノ



 ベッドを背もたれに話題のミステリー小説を読み進め、マグカップに手を掛けるとすでに中身は空になっていた。途端、多量のカフェインで無理矢理誤魔化していた欲求がよみがえり身体中を駆け巡る。
 耐えられない空腹感。
 昼食は普段と変わらない時間、むしろ少し遅めの時刻に十分なだけの量を摂ったはずなのに、先程から私の胃袋は助けを求めて叫んでいる。意識し始めてしまうとそれは尚更大きいものとなり、満たされない身体を抱え顔を歪めた。
 何か食べたい、足りない。
 イライラしながら空っぽのカップを噛んでみても、犬歯が引っ掛かって痛いだけ。溜め息をひとつ吐きながらぎりりと絨毯に爪を立てた。

 傍らで何かがごそりと動く気配がした。
 後ろを振り返ると、私に背を向ける形で眠っていた“彼女”が寝返りを打ったようだった。
 彼女は家を訪ねてきたきり、奇病ではないかと思ってしまうほどに眠りこけている。
 けれど決して病気じゃないことを私は知っている。
 病名をいうとするならむしろ彼女は“不眠症”だ。一日の睡眠時間は多くて四時間、下手をすれば丸三日くらいは平気で起きている。
 そんな彼女が心配で、週末はできるだけ家に招くようにしていた。
 不思議なことに、彼女は私の布団でならどれだけ長い時間でも眠り続けることができるらしい。どんな夢を見ているのかは知り得ないが、なぜだかいつも幸せそうな表情をしていた。
 彼女は一度眠ってしまえば、ちょっとやそっとの出来事では起きない。軽く髪を引っ張っても、大声を上げても、少しくらい身体を揺すぶったって寝息さえ乱れることはない。
 ベッドに腰を下ろしそっと彼女の口元に触れる。気持ち良さそうに眠る彼女がひどく憎らしかった。
 ごろりと横になり目の前の身体を抱きしめる。彼女はまだ起きない。
 むくむくと悪戯心が芽生えて、彼女の耳に噛み付いた。
 甘い味が、する。

「……んー」
「雅さん、ねえ雅さん起きて」
「なん、ウチまだ眠い……」
「お腹が空いて死にそうです。ご飯作ってください、雅さん」
「……」
「……雅?」
「……うるさい」

 ようやく目を覚ました“彼女”が、寝惚けた瞳で私を睨む。ぐしゃぐしゃと髪を撫でると思い切り顔面を叩かれた。
 心地が良い。
 内臓がきゅうと締まるのを感じる。

「……ねえ雅さん、お腹空いた」
「あーもう、でっかい子供じゃの。自分でできんの?」
「あなたのご飯が良いです」
「まだ寝たいんに……」

 口は達者だが眠いのは本当のようで、虚ろな目が瞬く間隔が狭まっていくのが見て取れた。けれど私だって引かない。彼女が睡眠を欲するのと同じくらい、或いはそれ以上に、私の食欲だっておさまらない。
 もぞもぞと体勢を変えもう一度夢の世界へ旅立とうとする彼女の耳、今度は反対側にがぶりとかじり付く。彼女の肩がビクリと震えて、その姿があまりにも面白かったのでただ延々と噛み続けていた。
 何か食べたい、足りない。
 がりがりと噛んで、時に吸ったりして楽しんでいると彼女がくぐもった声を上げる。少しだけ身体を離して様子を窺うと、彼女が濡れた瞳でこちらを見つめてくる。

「……ひろ」
「はい?」
「……えっちしよ?」
「えー、お腹空いてるんですけど。ご飯食べてからじゃ駄目ですか?」
「知らんの、ひろ。女っちゅーんは食欲が満たされたら性欲も満たされてしまうんよ。じゃけん今じゃなきゃだめ」
「……」
「なぁ、お前さん紳士じゃろ? レディーファーストは大事にせんといけんよ。なぁ、ひろ」

 “彼女”は本当に我侭だ。自分は遠慮せず惰眠を貪っていたくせに、起きた瞬間にかまえなどと。
 そのうえ私には“待て”だ。
 どれだけ焦らせば気が済むというのだろう。
 彼女の腕を取り指先を食む。軽く歯を立てると彼女が喉で鳴いた。



「のう、ひろ? ……今が食べ頃の子、ここにおるよ?」



 やれやれ、どうやら彼女も折れてくれる気はないらしい。
 “待て”の言いつけを決して破りはしない私は、前菜より先にメインディッシュを頂くことになるようだ。
 もう一度胃袋が縮むのを感じて、紛らわすように彼女の首筋をべろりと舐めた。
 私の下にいる彼女が満足そうに笑うのを目の端に捉える。
 そうか、先程から足りていなかったのはきっとこの感じだったのだ――





 ――ああ、そういえば。

 私のベッドでしか眠れない彼女と同じように、私の食欲も彼女と一緒にいる時限定だったことをたった今思い出した。










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三大欲求を全部出したかった。

2011.4.30.

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