空想少女のメランコリー(前) | ナノ
※仁王が痛い子
※仁王が腐女子
※仁 王 が 腐 女 子(大事なことなので二回言いました)
その男を見た瞬間、全身に電流が走ったように感じた。
「失礼します」
しゃんと伸びた背筋、艶のあるハニーブラウンの髪、ふわりとした穏やかな笑顔。校則どおりなのになぜか格好よく見える制服の着こなし。たった今私の耳をくすぐった声は高すぎず低すぎもしないよく通るテノールで、軽やかで優しいのに心にずしりと響くものでもあった。
きれいなひとだ、と思った。少し長めの前髪の隙間に見え隠れするチョコレート色の瞳が、とてもまっすぐで。
それを隠すように乗っかった眼鏡はお世辞にもセンスがいいとはいえないデザインだけれど、むしろちょうどいいのではないかと思えた。きっと直接見つめてしまうと失明してしまうから。太陽の光と同じなのだ、と。
彼から目が離せなかった。息をすることさえ忘れていたかもしれない、気が付いたときには窒息しそうなほどに苦しくなっていた。
「――あの」
その時には既に頭が正常に働くことをやめていた。私の身体に存在する全神経が彼に集中していたんだと、思う。それほどに夢中になっていた。
「あのー……えっと、仁王、さん?」
彼の薄いくちびるがなめらかにその言葉を紡いだとき、初めて彼に声を掛けられたのが私だったのだと理解した。
「……へっ?」
「落ちましたよ、シャープペン」
「あ、あぁ……ありがと」
いつの間にか手からこぼれていたそれを彼は丁寧に拾い、私に差し出してくれた。
シャープペンを受け取る手が震える。
元よりおしゃべりな性格はしていないけれど、緊張してまともに話せないなんて経験はこれが初めてだった。声が上擦って、掠れて、どうしようもない。
彼が不思議そうな表情で私を見る。自分が“詐欺師”であることも忘れてしまっていた。
「……? ぼんやりしていますが、体調でも悪いのですか?」
「え、」
「ソイツいつもそんなんだから気にしなくていーぜ」
返答に困っていると私の斜め前方から声がした。それが丸井のものだと気付くまでに普段じゃ考えられないくらいの時間を要して、理解したと同時に、ようやく酸素が体内を巡った感じがした。
視線をそらせないならいっそのこと目を閉じてしまおうと思い立ち、しばらく俯いて深呼吸をする。平和が戻ってきた。大げさでなく思った。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「気にすんなって。で、俺に用事だろぃ?」
「え、あ……そうですね。本日の練習試合のことなのですが……」
心臓がせわしなく動いている。そんなに一生懸命にならなくていい、これ以上はきっと労働基準法的にアウトだ。
最後にもう一度だけ深く息を吸って、吐いた。今現在あるだけの平常心を総動員させて、ちらりと目線だけ上に向けた。
――丸井と同じ部活なんか、な。ルールなんて全く知らないけれど、テニスの話をしているその男はとても楽しそうだった。
彼と丸井を交互に見る。不意に丸井が彼の肩を叩いて笑うものだからまたドキドキした。痛いですよと文句を言いながら、彼もなんだか楽しそうで。
(――――伏線?)
分かりやすい用語で言えば、フラグが立った、である。
(そう、丸井もよく見ればイケメンの部類なんよ、な)
(さっき「俺に用事だろ」って、ウチとの話を遮った)
(…………ヤキモチ?)
なんだかたくさんのことを考えているうちにすっかり話は終わっていたらしい。
いつの間にか教室を去ろうとしている彼の背中に向かって丸井が笑顔で声を掛ける。
「んじゃまた後で! 遅刻すんなよヒロシ」
「ふふ、あなたがね」
(――――これは、キたわ)
同級生男子二人を目の前に先程から悶々と一人脳内会議を繰り広げている私は、世間一般的に“腐女子”と呼ばれる部類の人間である。
空想少女のメランコリー
それからの授業は身に入らないなんていうレベルではなかった。
ただひとつだけ違ったことといえば、今日はただぼんやりしていた訳ではなかったということ。彼のことを考えていたら午後の二時間がとてつもなく早く過ぎ去っていった。
(すてきなひと)
そしてそんな、優秀が服を着ているような彼の向かいにいたのが丸井だなんて。
不良というには人当たりがいいし愛想もいい。世渡りもうまい方だと思う。けどあの目立つ赤髪と鞄の中の大量のお菓子、授業中にプラモデルを組み立てるのは大目に見ても褒められる行動ではない。
絵に描いたように対照的な、二人。
(昔から正反対っちゅーのはお決まりの組み合わせなんよな。ベタじゃけど、ウチはいける)
「……う」
(第一印象はお互い最悪で、でもある日さっきの彼が丸井の意外な一面を見てしまって、それから丸井が気になってしょうがなくなって、とか)
「……仁王」
(あああでも! 真面目な彼が丸井に無理矢理丸め込まれるのもそれはそれでええな。あれだけきれいな人じゃもん、手ぇ出したくなるのも分かる……)
「仁王!」
ふと、自分の名前を呼ばれて、我に返る。
「……なんでしょうか丸井クン」
「なんでしょうかじゃねーよ。日誌書いといてくれって言ったじゃん」
「あ」
「本当お前いい加減にしろよ」
本来ならばこの時間部活動に青春を捧げているはずの丸井がどうして未だ教室に滞在しているかというと答えは簡単、私と丸井は本日の日直当番であるからだ。そういえば黒板を消している間に日誌を頼まれていた気がする。考えるのが忙しくて少しも手をつけていないまま今に至る。
そうしたら丸井に、貸せ、もう俺が書くからとシャープペンごと日誌を奪われた。例の彼が拾ってくれたそれを、丸井が力いっぱい握る。
(ちょお待って、間接的に手ぇ繋いどる、手!)
激しいなどという安い言葉では表しきれないくらい動悸がする。漫画にしか存在しない架空の表現だと思っていたのに、どうしよう――どきどきする。
今まですらすらと動いて文字を生み出していた目の前の右手がふいに止まった。日誌から視線を上げた丸井が、シャープペンのてっぺんで顎をこつこつとやる。
「……さっきから何だよ、人の顔ジロジロ見てきて」
――まるで王子様がお姫様の手の甲にキスを落とすかのように見えた。
もういっそ殺してくれ。
非常にもどかしい想いになって、まっすぐ見つめてなんていられなくて両手で顔を覆った。やめんしゃい、雅のライフはもうゼロよ。
「え、何お前マジで体調悪いの? 保健室行く?」
「…………丸井」
「何、だよ」
「さっきのひと誰」
「は?」
「昼休みの、眼鏡の人」
「眼鏡って……ヒロシか?」
「そうそれ!」
あんなにきれいな人なのに普通の名前。少しばかり地味すぎる気もする。でも、考えてみれば似合っているかもしれない。
丸井はだいたいの人間を名字で呼ぶのに、彼のことは名前で呼んだのでどきどきした。当然か、特別な存在だったとしたら。
さっきの彼も、丸井を名前で呼んだりするのだろうか。そんなイメージではなかったけれど、でもたとえばほら、夜の場合は? ……駄目だ、想像しただけで顔が火照る。
もっとたくさんの情報を得たい。丸井に聞いちゃ迷惑かな。好きな人のことを根掘り葉掘り聞かれたら、いい気はしないだろうし。自慢の恋人を見せびらかす感じで……駄目かな?
しばらく怪訝そうな顔をしていた丸井が、ああ、と声をあげた。
「なんだ、そゆこと」
「え?」
「柳生比呂士。A組。テニス部レギュラー。成績は学年でもトップクラス。他になんかある?」
「えっ、……っと、せーかく、とか」
「とにかく真面目。元生徒会役員の現風紀委員。“紳士”なんて呼ばれてる。でもアイツ金持ちの坊ちゃんだから、世間知らずでちょっとズレたトコもある。あとは?」
「な、なんでもいい!」
「うーん」
日誌を書き終えたのか、大きく伸びをして肩を鳴らした丸井はシャープペンを投げて返してきた。普段なら怒るところなのだろうけれど、そんなことは今はどうでもよかった。
「そうだな……イイ奴だぜ、すごく」
じゃあ戸締まりシクヨロ、とだけ言い残して、丸井は大きな鞄を背負って教室を去ってしまった。
ああ、なんてこと。
私は生まれて初めて、のろけというものを聞いてしまった。
それからというもの、妄想に費やす時間とスケッチブックの消費量が格段に増えた。
彼はたまにB組に訪れて丸井に簡潔な業務連絡だけをして帰っていく。私はいつも二人の姿をちらりと盗み見てはラフスケッチをした。
彼に拾ってもらったシャープペンを握る指先が熱くなるのを感じる。
(……柳生)
いつもどんなことを考えているんだろう。どうしてそこまで丸井の面倒を見るんだろう。優しい笑顔を見ると心臓が煩く鳴ってたまらない。
時折丸井が何か言いたそうな視線を送ってくるものだからそのたび申し訳ない気持ちになるのに、それでも彼を見ることをやめられなかった。柳生さんが魅力的だから仕方ない、なんて勝手に責任転嫁さえしていた。
優しくて、物腰が柔らかくて、おとぎ話に出てくる王子様みたいな人。こんなの気にならない方がおかしい。
(……やぎゅう)
自然に顔が熱を持つのを感じる。今、できれば鏡は見たくない。ひどい表情をしていることは間違いないだろうから。
ふいに、私に気付いた柳生がこちらを向いてふわりと微笑った。
(ちょっ……!)
気のせいじゃない。
柳生がこちらを見た。視線が絡み合った。……笑った。
(死んでもええ……)
その言葉はもしかしたら口からこぼれてしまっていたかもしれない。
状況を理解していないらしく軽く首を傾げる(こんなところも可愛くてどうしようかと思った)柳生にあまりにもどきどきして、思わず顔を背けてしまった。
丸井ごめん、ごめんなさい、私は今幸せです。これ以上は望みませんので、あとはどうかお二人でお好きなようにランデブーをお楽しみください……。
「……あ、悪いヒロシ。借りた英和さ、うっかりロッカーに入れてきたわ」
「えっ? 何してるんですか。返してもらいに来ましたのに」
「わり、すぐ取ってくっからちょい待ち!」
「あ、」
ちょっと待ってください、という柳生の声は丸井にはもう届いていなかった。
さっさと教室を出て行ってしまった丸井を見て、とたんに今まで忘れかけていた罪悪感が一気によみがえってきた。
どうしよう、怒らせてしまったかもしれない。
違う、違うよ丸井、私は“丸井といる柳生”を見ていたいの。誤解なんだ。
追いかけた方が良いんだろうか。けれどそんなことをしてしまったら今度は柳生さんの立場がなくなる。そんなの、もっとこじれる結果になるに決まってる。
柳生と丸井の二人を目の前にして大声で叫びたい。
私はモブだ! 背景だ! たとえるならRPGでいう何度話しかけても同じことしか言わない『村人D』のような、あくまで盛り上げるための調味料にすぎないの! 決して途中から主人公(もちろん受け)を略奪しようとする恋敵ではないの! そんな役職に就く気などさらさらないの!!
「……あの」
後頭部に声が降ってきて、私は慌てて身体を起こした。
ぐらり、視界が歪むがどうにか耐える。どうやらずいぶんと長い間頭を抱えていたらしい。
「……なに」
「いえ、あれから体調は大丈夫かと気になったもので」
「……いやっ、あの」
「まだ良くないんですか?」
「そうじゃのうて……あの、平気、じゃけん」
「そうですか、良かった」
私に目線を合わせるために少しだけ屈む柳生の笑顔が眩しい。
……直視できんっ!
あまりにも気まずくて、横目で何度もドアの方を気にしていた。とてもじゃないけれどこの空気に耐えられそうにない。
なんでもいいから丸井が早く帰ってきますように。お願いだから柳生を一人にしないで。ついでに私もこの状況から助けてくれると尚良し。
私の様子を窺っていた柳生がちらりと教室の扉を見て、何かに気が付いたように目を見開いたあと黙って俯いてしまった。
あんなに綺麗だった笑顔が今はすっかり消えてしまっている。
何かショックを受けたような、寂しそうな、顔。
身体が重い、息ができない。
「……仁王さん」
そんな顔も素敵なのだな、と私は他人事のように考えていた。
だんだんと視界がぼやけて見えなくなるなか、柳生だけは変わらずきれいだ。
頭が痛い、めまいがする。
「あなたは、」
丸井、早く帰ってきて、お願い。
柳生さんはね、寂しいんだ。きっと本当は寂しがり屋なのに甘えるのがへたくそだから。構ってもらいたいんだと思う。
だから早く戻ってきて、いつものように笑って肩を叩いてあげてよ。
指が痺れる、感覚がなくなっていく。
「丸井君を――」
ずきり。
左胸に刺さるような痛みを感じた。
どうして痛いの? 何がつらいの? “何が気に入らないの”?
ガタンと大きな音が鳴った。
におうさん、におうさんと私を呼ぶ柳生の声を耳元で聞いた気がする。瞬間とても穏やかな気持ちになって――それ以降のことは覚えていない。
ふわふわと宙に浮かんで、雲の間を飛ぶ夢を見た。
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