叫べ四月の愚か者 | ナノ
いつもより激しい情事のあと、音を立てないようゆっくりと起き上がる。隣で丸くなって眠る仁王君のくたびれた髪を触る。
するり。
指先から零れるとともに、ベッド横にある僅かな光を反射してちかちかと光った。
間違っても恋人同士ではなかったように思う。
私と仁王君は、決してそんな甘い関係ではなかった。二人の距離に名前なんてない。強いて呼ぶならセックスフレンド。
きっかけはあまりにも些細で、仁王君が誘ってきたのだったか、それとも私が襲ったのだったかもうすっかり忘れてしまった。ただ確実に言えるのは、私も彼も現実に疲れきっていたのだということ。発散できる“何か”を探しているうち、利害が一致していることに気付いてしまった。
初めて身体を繋げた時は苦しいなんてものでは済まなかった。
受け入れる側の仁王君はもっと辛いのだと思うと失くしていた理性や道徳といったものが少しばかり自分の中に甦りつつあった。それでもやめなかったのは、泣きながら荒い息を繰り返す仁王君が必死に手を握ってきたことと、それに伴って次第に快感を拾い始めた自分の雄があったから。
どちらも「止める」という選択肢など持っていなかったのだ、きっと。
それから私と仁王君はどちらかが強いストレスを感じる度に身体を重ねるようになった。お互い合意の上だった。
いや、正しく言うと合意の上であった『はず』だった。
最初の頃は良かったのだ。快楽に身を委ねて全てを忘れて行為に没頭することができたから。
けれどいつ頃からだったか、次第に私は彼を抱くたび身体中を厚い雲に覆われるような気持ちになった。一晩休めば落ち着くと思っていたそれは次の日になっても晴れなかった。
心配だと言ってくれた仁王君を無理矢理押し倒してその日は普段より乱暴に抱いた。仁王君の口から拒絶の言葉が出ることはなく、結果としてモヤモヤとした感情を更につのらせるだけだった。なぜだか目の前の仁王君がとても憎らしく、殴りたい衝動にまで駆られた。
気持ちが悪い、気味が悪い、馬鹿だ、最低だ、一体何を考えているんだ自分は。消えてしまいたい、と思った。今すぐ部屋の窓から飛び降りて死にたい。
そんな私を、仁王君はただ真っ直ぐと見つめていた。軽蔑だとか幻滅だとか、そういったものではないように思えた。むしろ心地良いとすら感じる優しい視線だった。
ざわざわと、風の音を聞いた気がする。胸がチクリと痛みを覚えた時、私は全てを察してしまった。
静かにベッドから抜け出して、脱ぎ散らかしたままのシャツを取る。放置していたそれは当然のことだが冷たくなっていて、袖を通すと背中がひやりとした。
ポケットに入れっぱなしの携帯電話で時刻を確認すると二十時を少し回ったところ、自分が思った以上に時間が経っていた。
終わりにしようと言ったのは仁王君が先だった。
いずれ終わりが来ることは分かっていたし、そしてそれは出来るだけ早い方がいいとも思っていたから、仁王君の言葉に何の疑問も持たなかった。このままぐだぐだ続けていても何かが変わるわけではないのだし、と、私は仁王君に同意した。
正しい道を選んだのだと思う。私達は少しばかり“近付き過ぎてしまった”。
身なりをひととおり整えた。
部屋から出ようと一歩を踏み出したところで右手に何か違和感を感じる。
袖を、引っ張られる、感覚。
「……仁王君」
「帰るん?」
「……ええ、そのつもりです」
「つまらんのう」
いつの間にか起きていた仁王君がベッドに転がったまま私を見上げる。
ごろりと寝返りを打つ時僅かながら眉間に皺が寄る。やはり負担が大きいのだろう、少しだけ申し訳なく感じた。
心細そうな表情――気のせいかもしれない、けれど私にはそう見える――をする彼は、俯いたままぼそりと呟いた。
「のう柳生、何か面白いこと言うて」
「なんですかその無茶振り」
「知っとるか柳生、世間では今日がエイプリルフールなんよ。嘘を吐いても馬鹿やってもええ日。日本人も例外じゃなかろ」
「はあ」
「安心せえ、お前の言う冗談なんて端から期待なんぞしとらん」
「それもどうなんですか……」
仁王君がまるでペテンを仕掛ける前のような生き生きした表情でにやりと笑った。つられて私も苦笑する。
ふと、会話が止まる。静寂に堪えられず泣きそうになった。
彼の左手が伸びてきて私の頭を優しく撫ぜた。あの時と同じ瞳。けれど少し違う。確かに心地良くて優しいのに、諦めに似たものまで含まれているような。
そうか、この感情の名前は。
「――仁王君、」
“あなたのことが好きです”。
「……そりゃ笑えん冗談じゃの」
「私にユーモアを求めることが間違いだと思います」
「あーもうムカつく。面白くなかったから罰ゲーム。玄関まで見送り行っちゃろう思ったけどやっぱやめとくけん、一人寂しく帰りんしゃい」
「おや、それは酷いですね」
「ええからさっさと帰れ、柳生の阿呆」
にこにこして私を追い出そうとする彼に、私もまた仮面を被って返した。それじゃあまた、と誰にでも使える挨拶をする。
部屋を出て、ドアを閉める。途端に色々な感情が込み上げてきた。脱力して倒れそうになるのを必死に支えて、かろうじて立っている状態だった。
ねえ仁王君、気付いていましたか。
私達は幾度となく身体を重ねてきたのに、口付けを交わしたことは一度だってなかったのだということ。
ねえ仁王君、知っていましたか。
エイプリルフールに嘘を吐いていいのは午前中だけなんですよ。
ねえ仁王君、あなたは知らなかったでしょう。
私は貴方に秘密にしていたことは沢山あったけれど、嘘を吐いたことは一度だってなかった。
故に先程の言葉だって――
以前の二人に戻ろうと決めた。
明日から私と仁王君はチームメイトで、ダブルスのパートナーで、親友。
それだけでも十分に贅沢なのに、胸には虚無感が残った。
そう、この感情は確か、絶望という名前だった。
叫べ四月の愚か者
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今更四月馬鹿。
fool=馬鹿、『愚か者』。
2011.4.8.