内緒話 | ナノ
人間、上には上がいるらしい。
自分の旦那も相当のものだが、彼女の生真面目さは『ものすごく』と『超』と『ド』を付けてもまだ不足しているのではないだろうかと思う。
基本的に適当な人間(主に自分のような)は余程のことじゃない限り相手に何をしようがされようが気にしないのだが、堅物人間は小さなことを阿呆みたいに気にする嫌いがある。そして、その性格故に波風を立たせたくなくてついつい溜め込んでしまうのだ。
溜め込むだけならまだいい。自分にはひどく負担をかけるが、それ以外の誰も迷惑しないのだから。
問題は心の奥底へ追いやられ最早ストレスと化したそれがその後どういう進化を遂げるかだがこれに関してははっきり言う、危険だ。時には水素爆弾にも負けずとも劣らない爆発を伴うことがある。それが一発ドカンとなってハイ終了、ってな訳にはいかないのだから恐ろしい。
彼女にとってはどうやらそれが今らしく、まるで太平洋戦争並の爆弾大量ばらまきサービス絶賛開催中である。
どうやら妙な比喩表現や回りくどい説明の仕方が旦那に似てきてしまったようなので、気持ちを切り替えて要約しよう。
上の階が非常に煩い。
ご近所とも円満な関係を築いているどこの模範生だと言いたくなるような彼女が、鼓膜を引き裂かんばかりの大声で泣き喚いているのだからこれは間違いなくタダ事ではない。真下が知人である自分の部屋で良かった(管理人に苦情が入ったら後々面倒臭い)と思う反面、被害を被っているのも事実だといえよう。具体的に言うと子供が泣き止まない。掛ける、二人。
よりにもよってこんな晴れた日にヒステリーを起こさずとも良かろうに、なんてタイミングの選び方だ。
良かったことと言えば今日が日曜日だったことか。彼女のいる部屋の両隣は子供が小さいから、きっと家族でどこか遊びに出掛けていることだろう。
そして我が家はというと、仕事が休みなので旦那が自宅にいる。
さすがに適当人生まっしぐらといえども幼い子供二人を置いて出掛けるほど非常識ではないので、助かったといえばそうなのかもしれない。つまりはまぁ、そういうことだ。
うちの小さな天使(の片割れ)を必死に寝かし付けようとしている旦那にちらりと目配せをすると、呆れた表情で肩を竦めて溜め息を吐く。落ち着きんしゃい、溜め息を吐きたいのはこっちぜよ。いや、それ以上に眠りたいのに眠れんコイツらが一番の被害者か。可哀想に。
よしよしと片割れの頭を撫でていると旦那から熱烈かつ冷たい視線を感じた。何じゃ、お前さんの目はドライアイスか。器用なことで。
無言のゴーサインだと見て仕方なしに重い腰を上げると、
「女性には優しく、ですよ」
と実にフェミニストらしい一言が掛けられた。
失礼な、ウチはいっつも優しいじゃろうが。年齢性別問わず周りには菩薩のような気持ちで振る舞っとるわ。生きたマザー・テレサここにありっちゅーてな。
「そんなことはどうでもいいので早く行って来て下さい」
予想はしていたがそれ以上に冷ややかな目で見られた。
あーはいはい分かりました、行けばええんじゃろ行けば。その間お前はその美声を最大限生かして子供達に子守唄でも歌ってやれ比呂士さんよ。上手くいったらご褒美にひぃくんとでも呼んでやろう。そしてウチの活躍を見れなかったことに静かにハンカチを噛みやがれ。
と、精一杯悪態をついたら全力でスルーされていた。ウチにも少しくらい優しくしんしゃい、この似非紳士が。もう慣れたけどな。
玄関を出た自分は真上の階へと足を運んだ。
文句を言いたい対象の人間はどうせおらんのだろうが。
今度は一体何をしやがった、千歳。
一応旦那の名誉の為に、不本意ながら、優しい雅ちゃんが説明をしてあげようじゃないの。
奴は決して面倒事を押し付けてきた訳ではなく、レディーが泣いているところに男(しかも他人)が立ち入るのは良くないという彼なりの思考を持ってあの言動に至っている。何故分かる? 長年の勘だ。
アイツのことだから他にも諸々の理由はあるのだろうし大体見当もつくのだがこれ以上は面倒なので端折る。誤解を解いてやっただけ有難いと思えば良い。比呂士にはあとで何か買わせよう。
さて、無事に八階に着いた訳だが。
インターホンを押す。ぴんぽーん。ほんの一瞬泣き声が止まりこそしたがその後反応はない。もう一度。ぴんぽーん。
この状態で今更居留守も何もないのだが、彼女は意地でも表に出てこないつもりだろうか。そんな悪い子にはお仕置きが必要やのう。とりあえず手始めにインターホンを五、六回連打してやろう。これは地味に参る。
だがドアが開く気配はまったくない。
しょうがない、直球でいくか。残念ながらこっちも少しばかり感情的になっているから豪速球は避けられないが。
おーい白石さんよ、お前さんが暴れるせいでうちの可愛い子等がおねんねできんのじゃけど?
別に意地悪をするつもりなど毛頭なく、むしろ白石みたいなタイプには建前やオブラートを取り払ってストレートに話す方が良いのだ。下手に出るとこのテのタイプはあることないこと丸々ひっくるめて自分のせいにしてしまう。何故分かる? 経験談だ。相手は柳生比呂士。かっこ、苦笑、かっこ閉じる。
これらの手段を以てして漸く自分は家の中に入れてもらうことに成功した訳なのだが。それにしても白石レベルの別嬪が世紀末を思わせるような表情をしているのには驚いた。素面じゃない時の真田くらい世に出せんぞこれは。
部屋の方はというと、普段は塵ひとつ残っていないモデルルームのような快適な空間がまるで泥棒に入られたかのごとく散らかっていた。彼女の荒れようを思う限り、食器が割れたりしていないだけまだマシだと言うべきか。
観察はこの辺でやめておこう、悪趣味だし。そろそろ立ち尽くしたまま心ここに在らずの白石を落ち着かせなくてはならない。今は泣いてこそいないが、だからといって状態が良くなったとは到底思えん。
あらかじめ予測をしておく。おそらくNGワードは『千歳どこにおんの?』もしくは『あれ、今日千歳は?』。
予防線を張ったところでそろそろ本題に移ろう。
早速だが何があったか聞かせてもらおうか白石サン。話しとうないことは無理には聞かんし、ゆっくりでええけんな。
背中をさすってやると白石は操り人形の糸が緩んだ時のように脱力し、そのままへなへなとソファーに座り込んだ。
「…………昨日な、千歳に、プロポーズされてん」
……ええと、それはそれはなんというかおめでとう。
白石は引く手あまただろうがあの阿呆の面倒を見きれるのはおそらく彼女しかいない。そりゃあもう一緒になるべくしてなるのだろう。良かった良かった。
じゃあこの白石の荒れっぷりは何だ。俗に言うマリッジブルーか。ちと早すぎやしないか。……まあ、相手が千歳だから分からないこともないが。
「それでな、昨日、めっちゃ嬉しかってん。千歳のことはホンマに好きやし、そもそもそんなつもりなかったら同棲なんかしてへん」
そうじゃろな。
「けど……今日、朝起きたらアイツどこにもおらへんのよ。元々放浪癖ある奴やけど、何で今日なん、って、……やっぱり結婚嫌になったんかなって不安になって」
今現在の白石に対してはとても言えないが、本当は声を大にして叫びたい。
ありえん。
アイツほど盲目な男を他には知らん。いや確かに白石は嫁に来てほしい女性ランキングを作ったら堂々の一位を飾る人間だろうが、それにしてもべたべたに惚れすぎである。奴のノロケのうざったさといったら恐らく比呂士がニコニコしながら吐く毒と互角だ。むしろ千歳の判定勝ち。
……と、うっかり別のことを考えてしまいそうになって(主にあの憎たらしい笑顔とか)慌てて思考と視線を白石へと戻した。幸い白石は気付かないでいたようなのでそのまま話を聞くことにした。
「……最悪や、って思って……そんな風に考えてしまう自分が、また嫌で。今まで長いこと付き合って来たんに、なんで千歳のこと信じてあげられへんのやろう、って」
――ははあ。
なるほど。
つまり白石の性格が大きく災いしたわけか。白石はしっかりしていて、優しくて、良くも悪くも真っ直ぐだから。“真っ直ぐすぎる”から。
なあ白石、ひとつ質問してもエエかの。
どうしてお前さんは千歳を『信じなきゃいけん』の?
白石は、へ、と素っ頓狂な声を上げた。
目をぱちぱちとしばたたかせてこちらを見ている。どうやら今ので涙がすっかり引っ込んでしまったらしい。いいことだ。
「や……だって……当たり前やん。恋人やし、結婚する人やし……」
あのなあ白石。『自分の配偶者を信用しなければいけない』なんて六法全書には書いとらんじゃろ。
「……でも」
多分、白石を蝕むのは真面目であるが故の“固定観念”だ。
一般論は一般論、多数決で決められたものでしかない。それが正しいなんて誰が決めた。(ちなみに自分もそうだが比呂士も多数決の原理が大嫌いである。「日本は腐っています」とよく言っている)
じゃあお前さんに面白い話をしてやろう。自分は結婚してそろそろ三年になるが、比呂士を信用したことは『今まで一度だってない』。
なんで、とか、どうして、とか、白石に口を挟む隙を与えないまま話を先に進めた。
――ウチはなあ白石、毎日自分の旦那を疑ってるんよ。
朝起きる。比呂士がウチの作った朝食を食べて「おいしかったです、ごちそうさま」と言う。家を出る前に「行ってきます」と手を振る。夜、帰宅してすぐに子供の寝顔を見て穏やかに微笑む。ウチにも「ただいま」と声を掛ける。メシ食って風呂入って、おやすみなさいのキスをしてくる。たまにそのまま求めてくる。
それがあって初めて、「ああ、コイツは今日も“まだ”ウチのことが好きなんか」と思うんよ。ハナから信用なんてしとりゃせん。
多分それは比呂士も同じ。毎日家事育児をして、自分の帰りを迎えるウチを見てやっと安心してると思う。
そんなもんじゃろ、人間なんて。信用ならんから勝手に携帯調べたり帰りが遅うなったら浮気を疑ったりするんじゃろ。男女間なんじゃけ尚更。
そう言ってにっこり笑ってやると、白石は驚いたような気の抜けたようななんとも説明のつかない表情をしていた。恐らくきょとんとかぽかんとかそんな感じだ。
白石に実行しろなどと言うつもりはない。疑っていても疲れるだけだから。ただ、自分の首を絞めてばかりいるのもよくないから、こんな一般論からかけ離れた考え方もあるのだということを白石に知らせておきたかった。
「……雅ちゃんは、何で柳生君と結婚したん?」
予想していたことをそのまま聞かれたのでつい吹き出してしまった。意味が分からなそうに首を傾げる白石を見て千歳は本当にいい女を捕まえたなと思った。バランスがいい二人だ。足して割ったらきっと丁度いい。
さて、そろそろ受け取った質問に答えを投げ返さなければいけない。
こちらも一般論とはいえないだろうが、あながち外れてもいない気はしている。
ウチが結婚したんはな――
その答えを聞いた時、今日はじめて白石が微笑った。
――――ということがあった。
一部始終を聞かせると、比呂士はハアと溜め息か相槌か分からない返事をした。現在マッサージをさせている最中なのだが、それにしてもそれは大変でしたねと他人事になるな。お前も大概だ。
ええ大変でしたよおかげさまで。だからもっと労れそして崇めろ。あ、もうちょい首側。
「はいはい。……しかし千歳君も罪な男ですね。あのような魅力的な女性に不安を抱かせ、挙句の果てに泣かせるとは」
自分のこと棚に上げるんじゃなかよ比呂士。お前さんも散々ウチみたいな美人を泣かせてきたじゃろうが。
「ベッドで?」
ふざけんな。
コイツのいちいち癇に障る切り返しはなんとかならんのか。付き合い始めた頃のとっても紳士的な柳生比呂士さんはどこに消えた。まあいいけど。でもせっかくだから睨んどこう。……痛い痛い痛い思いっきりつねるな阿呆んだら! それはマッサージとは言わん、ドメスティックバイオレンスじゃ。
「それはそれとして……あなたが私を未だに疑い続けているとは知りませんでした」
意外?
「いいえ全然。あなたらしいです」
当たり前じゃろ。ウチに信用してもらいたいならウチの為に死ぬくらいはしてくれんとな。
「あなたと子供達と生きていきたいと思っているので、それはお断りします」
……なるほどそうきたか。
やっぱり比呂士の受け答えはいちいち癇に障る。いい意味でも悪い意味でも。
まあ、何はともあれ白石は大人しくなったし子供等も無事安眠を手に入れたのでめでたしめでたし。さすが自分。
そういう訳で比呂士さん。
今日もまだウチを愛しているのだと、言葉より行動で示してウチを安心させてみたいとは思いませんか。
「……なるほど、そうきましたか」
想定外?
「そうですね、今回は不意を突かれました。ねぇ雅さん、私明日も仕事なんですよ」
じゃけぇ一回だけ。いけん?
「一回と言ったこと、後悔させてあげましょうか?」
……望むところ。
『コイツになら騙されても後悔せんなと思ったから』。
最後に白石に言った言葉だ。
彼になら裏切られてもいいや。そう思うくらいに好きだったから結婚した。
根底にある大事なものはいつだって単純なのだと自分は思っている。
自分は柳生比呂士という男を常に疑っている。正直、ある意味では百パーセント信頼を寄せるよりもしんどい毎日を送っている。
けれど帰って来たとき愛する我が子の寝顔と慣れない料理をしようと包丁を握り奮起する旦那の姿がそこにあって、自分はけっこう幸せなのだと思った。
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ついに手を出した家族パロ。
上下階は自分でも理解できないこだわり。
2011.3.8.