深海のヒメゴト | ナノ


 ――それが何年ほど前で、何処に住んでいた頃の話なのか、もうすっかり忘れてしまったのだけれど。

 おそらくまだ小学校に上がる前だった気がする。
 当時俺はそこいらの女子より可愛らしい顔立ちをしていて、着る服も姉貴のお下がりばかりだったものだからよく女に間違えられていた。姉貴と公園で遊んでいたら「あら、お人形さんみたいな姉妹ね」とマダムが微笑んで見つめてくるのが常。そんな馬鹿な。……いや、嘘のような本当の話である。全体的に痛々しい黒歴史なのだが、決定的に心にヒットするのは俺が“可愛い”と言われることを決して不快だと感じず、むしろ楽しんでいたことだ。
 まあこの話は今すべきことでもないので端折ることにする。これ以上思い出すと傷口に塩だ。断じて言う、俺はマゾではない。
 本題に戻るが、その当時とっても可愛らしかったマサハルくんにも男の子のオトモダチが一人だけ存在した。なにせ昔むかしのおハナシだから名前さえ思い出せないのだが、見た目は俺とは正反対といえる人間だった。精悍な顔立ちに浅黒い肌、頭一つ分高いかと思うほどの身長を持つアイツ。同い年だと言われたことは覚えているが、何をどう食えばそんなにデカくなれるのか未だに謎だ。かと思えばふとした時に見せる笑顔だけはやたら年相応で、幼いなりにも、分からない奴だ、と思っていた。
 更に分からなかったのは、奴は俺のことを頻繁に『姫』と呼んでいたことだ。俺を女だと思っていたのかもしくは男だと知った上での行動だったのか、今になっては知る方法もないのだが。
 奴は周りに馴染もうとしない俺を見捨てずよく構ってくれた。俺も俺で悪い気はしなかった。
 多分奴なりの、変わった愛情表現だったのだろうと自己処理をしている。

 で、だ。
 我が家は転勤族だったからいつか別れが来るものだとは理解していたのだが、その時に限り、思った以上に時期が早かったのだ。
 いや――もしかしたら、そのように感じただけだったのかもしれない。
 他の場所ではただダラダラと同じようなつまらない日を繰り返すだけ。けれどその場所では、俺は幸か不幸か“友人”というものを手に入れ、“友情”を知ってしまった。誰かと共に過ごすことの安らぎを、ひとりぼっちでいる時の寂しさや孤独を、俺は知ってしまったのだった。
 俺は泣いた。声が嗄れて出なくなっても構わないとさえ思った程に泣いた。それで親が引っ越しを取りやめてくれたらいいのになどと馬鹿なことを考えていた。目の前にいるアイツはただ黙って俺の傍にいた。アイツも泣きそうになっていた。
 初めて知った友達のあたたかさが辛かった。もう、俺は、触れられない、触れてもらえない、忘れなきゃいけない、のに。
 涙は止まることを知らず滝のように延々と流れ続ける。俺は俯いたままアイツの顔を見ることができなかった。最後だから目と心に焼き付けておきたいのに、最後だという事実から目を背けたかった。
 そんな俺を知ってか知らずしてか、奴は俺の頭をポンポンと優しく叩いて笑ったのだ。

「――たからもの、コウカンせんね、“姫”」

 大人は“ケッコン”とやらをする時に大事な指輪を交換するんだよ。自分達はオトナじゃないから、代わりにそれぞれの宝物を交換しよう。どこへ行っても繋がっていられるように。

 奴の優しさが嬉しくてまた泣いた。
 アイツが俺の右手に握らせてくれたのは大きなビー玉。綺麗な青い色をしていて、覗くと海の中にいるような気分になった。
 俺は“タカラモノ”が具体的にどのようなものか分からなくて(物に執着心がないのは今でも変わらない)、仕方がないからたまたま持っていたキーホルダーを渡した。これは何だと聞かれて、アニメーション映画のキャラクターだと答えた。
 ――おもしろかと? ――きらいじゃなかった。 ――おまえさんがいうんやけんまちがいなかね、いっぺんみてみっと。
 そして奴はまたもふわりと微笑うのだ。

「なぁ、“姫”。それぜったいなくしちゃいかんよ」
「……おまえもな」
「めじるし、やけんね」
「めじるし?」
「オトナになったら、ぜったい“姫”のことむかえにいくけん、そんときのめじるし。な?」
「……あほじゃろ、おまえ」

 憎まれ口を叩いたのは、奴があまりにも素直に気持ちをぶつけてくるから、だったのかもしれない。奴は俺のそういう行動もすべてお見通しのようで(それがまた非常に気に食わなかったのだが)、俺の髪がぐちゃぐちゃになるのにもかまわず頭を撫でた。自分でも信じられないほどに心地がよかった。このぬくもりをずっと覚えていたいと思った。もう忘れる必要なんてないのだから、と。

「じゃあ、また。ばいばい“姫”!」










 ――という、幼い頃の思い出。
 気が付けば俺は中学三年生になっていて、多少華奢ではあるもののきちんと男の体格になったし、姫と呼ばれて嬉しくもなんともないくらいには立派に成長した。
 数多くの引っ越しと転校を短期間で経験してしまったせいで、自分でも自分がどの地域にどのくらいの期間住んでいたのか記憶があやふやだ。曖昧になりすぎてしまったせいで、そんな“トモダチ”がいたというのも実は寂しがり屋の俺が見た鮮明な夢だったのではないか、なんて疑ったりもする。
 しかし幻でなかったことを証明するように、今でも俺の部屋では奴にもらった深海色のビー玉がふいに窓際を転がるのだ。
 日の光を浴びて七色に輝くビー玉は今の俺にはお世辞にも大きいとはいえないサイズで、それが嬉しくもあり悲しくもあった。
 以前は毎日のように覗いては奴のことを思い出したりして、センチメンタルも極められたり状態だったのだが、年を重ねて大人に近づくにつれてその回数は減っていった。その中でも存在を忘れるということは絶対なかった。アイツが言った「迎えに行く」という言葉を信じている訳でもなんでもないのに、今となってはただのガラクタと変わらないそれをなぜだか捨てられないままでいる。絶対失くすな、という昔の約束を守り続けている俺は他人から見ればきっと相当の阿呆だ。

 そんな夢のような昔の思い出に浸っていたらすっかりいい時間になっていて、俺は慌ててテニスバッグを背負う。部屋を出る前に久々にビー玉の向こうを覗いた。相変わらず綺麗な海の色をしていた。不思議なまでに心が落ち着き、満たされた。
 ――行ってきます。
 普段は親にだって絶対にしない挨拶を、窓際の小さなそいつに言ってみたりして。



 本当は奴に抱いているものが友情でないことくらいとっくの昔に気付いてしまっているのだが、口にすれば泡のように消えてしまう気がした。
 俺はこの気持ちを深海の奥底に閉じ込めて、たまに気が向いたときに覗くことで幼き感情を思い出すことにしている。










深海のヒメゴト




















 千歳は気の赴くままに歩いていた。
 今日は中学テニス部の関東大会が開催される日なのだ。関西圏の自分達は既に全国大会行きへの切符を手に入れている。
 今日は全国大会対策として他校の偵察に来ている訳なのだが、もとより放浪癖を持つ千歳は知らない土地でじっとしていられる性分ではない。というのも、本人は独断で散歩を始めてしまったのだ。会場内にとどまっているだけまだ自粛できていると言うべきなのかもしれない。こんな晴天に何もしないのはもったいないどころの話ではない、というのは彼の持論である。

 その時、肌触りの良い涼しい風がその場を駆け抜け、
 テニスバッグにぶら下げた鈴が鳴った。

 千歳はその音を聞くとふと立ち止まり、懐かしそうに音の持ち主に触れる。
 幼い時、自分が“姫”とあだ名をつけて可愛がっていた友人にもらった大事なキーホルダー。もらったというより、預かった、の方が正しいのかもしれない。
 どこか遠くへ引っ越してしまう彼に、宝物の交換をしようと切り出したのは自分だった。彼に寂しい想いをさせたくなかった。――というと、嘘になるのかもしれない。
 本当は自分が耐えられなかったのだ。彼が、何も残さず自分の前から去ってしまうことが。

 肌身離さず持っていたせいですっかり古くなってしまったそれだが、鈴の音色だけは昔から何も変わらない。
 飄々とした彼がまさかアニメキャラクターの付いたキーホルダーを自分に預けてくると思わなかったので、あの時は色々な意味で反応に困ったものだ。迷った上で彼に掛けた言葉が「この映画面白いの?」だったのだから、なんというか自分も救えない。
 しかし彼が「嫌いじゃない」と言ったから、自分も観てみたいと思った。
 一つだけ知っている彼が観た映画。その楽しみをどうしても共有したくて。
 ビデオテープが擦り切れるまで、彼を思い出すように何度も何度も観ているうちに、いつの間にか彼だけではなくこの映画も『好きなもの』になっていた。彼が観た映画を自分も好きといえることが心から嬉しかった。

 さて。引き続き散策をしたいところだが、どうやらお目当ての学校の試合がそろそろ始まるらしい。何も収穫のないまま帰ってしまったが最後、普段は穏やかで優しい部長がどんな文句を言うか分からない。
 そろそろコートに戻ろう、と踵を返した直後。



「ちょっ、お前さん危なっ、どきんしゃい!」



 頭上から何か巨大なもの――少なくともリンゴの実なんかとは比べ物にならないもの――が降ってきた。
 その巨大なものが人間であると認識した時、何故か千歳の取った行動は回避ではなく受け止めることだった。
 身体をがしりと捕まえて、うっかり自分もバランスを崩して転んだが、幸い怪我はしていない。しばらく呆然としていた千歳だが、相手の安否を確かめるべく間もなく起き上がった。

「大丈夫と?」
「どけぇて言うたんに」
「スマンばい、天使が落ちてきたんかと思ぅた」
「……お前今ので頭のネジどっかやったんか?」

 どこかで聞いたことのあるような憎まれ口に、千歳はゆっくりと目を開け。



「銀髪――」



 そして、二人は再び、出会った。





 空から降ってきた銀髪の少年――仁王雅治が、千歳千里のテニスバッグに控えめにぶら下がる見覚えのある愛らしいキャラクターを見つけるのは、もう少しだけ先のお話。










******
どうしても千歳に“姫”と呼ばせたかったがための(そんな理由か)

いつもお世話になっているキミの傍まで(PCサイト)の神田さんへ。
お誕生日おめでとうございます。

2011.2.10.

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