氷点下 | ナノ
ピッ、ピッ、と、耳障りな機械音だけが響いていた。
使って三年も経つ携帯なのに未だにこれを消す方法を知らない。取説なんて読まないし、だからといって触って覚えることができるほど使ってもいなかった。
鳴りやまない操作音に耳を塞ぎたい衝動を抑えながら、ひたすらに単純作業を繰り返す。
柳生が親に見合いを薦められた時、背中を押したのは俺だった。
あなたはそれで良いんですかと言われて何もないふうを装った。美人さんやとええの、なんて。柳生が自分を押し殺し切れずに泣きそうになるのにも気付いていない振りをした。
そりゃ普通に考えればおかしい。俺と柳生は好き合っていたのだから。
十二年。長いようでとても短かったと思う。
告白したのは柳生。でも好きになったのは多分俺の方が先。お互い男と付き合ったことなど勿論なくて、接し方が分からず気まずい思いをしたこともあったが、それなりに愛を育んできたと思う。
二人で映画を見たり、人の目を盗んで手を繋いだりキスをしたり。性別を除いてしまえば本当に普通の恋人同士だった。ただそれが唯一にして最大の問題だった。
546件。
この携帯に変えてから柳生と交わしたメールの数だ。保護をかけていたそれを、先程から無心で消し続けている。
メールなんて滅多にしないのに(どちらも電話で話すのを好んでいた)、三年も経つとこれほどまでに溜まるものなのだなとまるで他人事のように思った。
すべてを大事に取っていた仁王雅治という人間は相当狂気に満ちているに違いない。そこまで考えて、ああそれって俺のことだっけと思い知らされるのだ。
どんなくだらないものでも鍵をかけておくほど、俺は柳生を愛していた。
わざとではなかった。本当にうっかり操作ミスをして、消すはずだったメールを開いてしまった。
見たくない、絶対見てやらん、頭ではそう思っているのに目が言うことを聞かなかった。
本文はとても単純で些細なこと。
『おやすみなさい、雅治。』
「――ぁ……」
声にならない叫びが、口から漏れた途端に空気に溶けた。あたたかみなんて何もない、冷淡であるはずの電子文字から視線を外せないでいる。
奴は俺をどうしても名前で呼ぼうとしなかった。拗ねてもごねてもねだっても駄目だった。
そんな柳生がたった一度だけくれたもの。口で言ってはくれなくて、テクノロジーに頼りっぱなしな情けないやり方で与えてくれた、『雅治』という言葉。
――なんで。
何を間違ってしまったんだろう、俺達は。十分幸せだったはずなのに。
どうして、俺は、柳生の手を掴んだままでいなかったのだろう。
そうしたら柳生は俺を抱き締めて離さないでいてくれたにちがいないのに。
突然けたたましい音がした。
手にしているそれが残りの動力の乏しいことを知らせる。慌てて充電器を探すが、普段から使う方ではないため見つけられる気配すらない。焦りと共に脳は正常に働かなくなり、そして――最後に一度悲鳴を上げた携帯電話の画面が黒くなった。
……ああ、なんて中途半端。
まだ消去し切れていないメールを残したまま動かなくなる携帯電話は、自分から身を引いたくせに『もし』の可能性を捨てられない俺にとてもよく似ている。
そんな俺を置いて、明日、柳生は見合いで出会った俺の知らない女と結婚する。
幸せになってほしいと心から願うのに、お前等なんか不幸のどん底を味わってそのまま死んでしまえと思う気持ちもまた、嘘偽りのない本当のものだった。
氷点下
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どこからが過ちだったのかも分からない。
2010.12.17.