足りない世界 | ナノ










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※テニスが存在していない世界の話












 無性に身体を動かしたくなる衝動に駆られることがある。

 今まで何度か味わってきた感覚だった。食事の後だとか、ただ帰るだけの放課後だとか、予定の埋まらない日曜日に、妙に寂しさを実感することがあるのだ。
 こういう時、部活動のひとつでも嗜んでいればこの虚しさを味わうことはないのだろうと考える。スポーツは好きだし、体力も運動神経も程々にある方だ。どんなものだって続ければきちんと報われる程度には実力も付けられるだろうと自負している。
 それでも帰宅部に徹していたのは、どの競技も『楽しい』がそれ以上でも以下でもなかったからだった。野球、サッカー、バスケットボール。一通りやったがどれもしっくりこなかった。必死に頑張っていこうとまでは思えなかった。小学生の頃からなんだかんだとつるんでいるジャッカルもそれは同じようで、なんかなあ、と首を傾げているところを何度も見てきた。せっかく血筋にも体格にも恵まれているのに勿体無いと思わないでもないが、納得できないまま中途半端に青春を捧げなくても構わないだろう。
 どうしてもモヤモヤする日は二人でよくボウリングに行った。二人で対決するんじゃなくて二人で一緒に立ち向かっていけるものがあればもっと楽しいのに、と考えながらストライクを連発して奴を絶句させたのは記憶に新しい。
 このままずるずると中学時代を終えるのも悪くないと思う程度には毎日が充実している。
 ただ、何かを求めている自分がいるのも否定できない事実だった。
 俺は一体何をしたいのだろう。何を欲して生きているのだろう。分からないまま気付けば十五歳になっていた。

 今日もスコアは俺の圧勝だった。
 負けたジャッカルには罰ゲームとして夕飯を奢らせることになっている。とはいっても、ジャッカルの親父さんが開いている中華飯店でラーメンを一杯御馳走になるだけなのだが。親父さんは、いつもジャッカルが世話になってるから、とあれもこれも出そうとしてくれる。運動部に所属していればそのご厚意に甘えることもあったのかもしれないと考えながら、今日も一人前のラーメンと餃子だけを食べて、餃子の分はきちんと支払いして帰るのだ。

「……あの、」

 後方から聞こえる声の向かう先がどうやら自分らしいことに気付いたのは少し後のことだった。
 振り返るとそこにはジャッカルと同じくらい背の高い眼鏡の男が立っていた。制服を着ているからおそらく同世代なのだろうが、随分大人びた顔立ちをしていた。

「俺?」
「ええ、あの……落とされましたよ、お財布」
「……あ」

 男の手にあったのは確かに俺の財布だった。中学に上がる際に買って、そろそろマジックテープが緩くなってきた代物だ。
 慌てて受け取って礼を言うと、男は小さく会釈をしてそのまま背を向けて去っていった。紺色のブレザーがよく似合っていた。やっぱり県内一の進学校の生徒は頭が良さそうだ。
 俺は中学から受験なんて考えたこともなかったけれど、やりたいことがあって受験をしたのであれば少し羨ましいと思った。普通に小学校を卒業して、普通に公立の中学に入った自分が少しだけ馬鹿らしく思えた。

「……危ねえ、落としたままだったらジャッカルに全額タカらなきゃいけないとこだった」
「俺かよ」

 少しずつ冷たくなる風とは裏腹に、町の木々はまだ青々としていた。
 秋にも冬にもまだ少し時間がかかるこの季節に、お世辞にも通気性がいいとはいえない詰襟の制服で、俺は今日もこの町を歩いている。





  *

 公立の中学校はきっと私のいるそこよりもずっと和気藹々として楽しいのだろうな、と、私は先程少し会話を交わしただけの彼等を思い出していた。
 中学受験を強制された訳ではなかった。ただ、自分は父親を継いで医者になるのだろうと思っていたから、そうなるべくできるだけ善いと思える方法を取ったまでだ。
 なりたい、ではなく、なる。
 父も祖父も、嫌がる私を縛り上げて無理矢理レールの上を歩かせるようなことはしないだろう。一定の期待はしつつ、結局やりたいようにやらせてくれるいい家族だ。だからこそ裏切ってはいけないと私は思う。医者を目指すことに異論も疑問もない。特に興味があるわけではないがそれ以上のものもない。だったら親の望むようにするのが最善だと思う。
 昨日も今日も私はただひたすら勉強をしていた。明日もきっと今日と同じように過ぎていく。変化がないのは平和だということだ。私はそれを喜ぶべきであって、嘆くべきではない。頭で理解はしているのに時に刺激を求めてしまう自分は、きっとまだまだ未熟なのだろう。
 一度小さく溜め息を吐き、自分から伸びる影を見た。

 昨日と違うことが起こったのは、自宅からそう距離のない道に差しかかった時だった。
 そこには少年がいた。神秘的な色をした長めの髪を持ったひとだった。制服が汚れるのに無頓着なのか、少年は河川敷に寝そべって野良だと思われる猫を愛でていた。
 なんてことのない風景。しかしまるでそこだけ別の世界から切り取って貼り付けたように私には思えた。
 不思議な空気に圧倒され、思わず立ち止まる。

「――――」

 ふと、色素の薄い彼の瞳がこちらを向いた。
 視線が絡み、そして、それはすぐに猫の方に戻ってしまった。
 一瞬細められたように思えたそれは、錯覚だったのかもしれない。

 学校指定の鞄を提げ直し、普段と同じ道を歩く作業に戻る。
 私は私の知る日常に帰った。
 今の生活は幸福だと思う。理解のある家族と勉強に困らない環境。特に不自由を感じたこともない。
 それでも何かを欲して心が揺れることがある。
 ふいに、早く大人になりたい、と思った。





  *

 数メートル先で立ち止まった男は、俺が一方的に面識のある人間だった。
 二駅先の図書館で何度か見掛けたことがある。決まって土曜日の午後だった。彼は目立つ方ではなかったが、自分と同じく読書量が多そうなのもありよく覚えていたのだ。
 制服姿を初めて見たが、彼の身に付けたものは奇しくも来年俺が受験する学校の中等部のそれだった。
 もし同い年であれば、来年のこの時期には友人になっているかもしれない。しかし結局何の関わりもないまま俺が勝手に知っているだけで終わるかもしれなかった。
 無意識に思い出したのは先週の現代文の授業だ。小説の内容に沿って登場人物の相関図を描いたのだが、成程、片一方からしか出ていない矢印とは自分が想像していた以上に切ない気分になるらしい。片想いとやらを楽しめる女子を俺は素直に尊敬する。

 最後の曲がり角に差し掛かった時、ある男子生徒とすれ違う。
 自分と同じ中学の制服を着用し風と共に駆けて行った彼も、俺が一方的に知っている人間の一人だ。
 いや、正しくは一度話したことがある。ただ彼がそれを記憶していないだけだ。
 神奈川に引っ越してすぐ、遊びに誘われて寄り道をした。結果道に迷い、俺は途方に暮れてしまった。周囲を見回しても自分の家はどこにもない。まだまだ子供だった俺にとって、土地勘のない場所で迷うことは大袈裟でなく死と同程度に恐ろしいことだった。
 そんな俺を救ってくれたのが彼だった。彼は困っている俺の手を引き、共に自宅を探してくれた。名札に書かれた学年は俺より一つ下だったがえらく頼もしかった。今でもよく覚えている。俺だけが知っている。

 季節の流れは早い。
 四月からは忙しくなるだろう。何事も順調に進めば来年からは俺も進学校の生徒だ。新しい環境に慣れようと努力するうち、いつか俺も彼のようにすべてを忘れてしまうのかもしれないし、そうはならないのかもしれない。未来のことなど到底想像もできない。
 ただ、今は、もうしばらく中学生のままでいたいと思った。





  *

 定期検診を終えて病院に出ると、入れ替わるようにして癖の強い黒髪を持った男の子が建物内に駆けていった。
 どうやらあの子のおばあさんがここにいるらしい。それらしき女性と中庭にいるところを入院中に何度か見掛けた。家族で来ることもあれば、今日のように一人で訪れることもある。一人の時はたいてい帰り際にはしゃいでいたから、もしかしたら内緒でお小遣いをもらっているのかもしれないな、なんて呆れ笑いもしたものだけれど。
 それでもおばあさんは孫の顔を見られて嬉しそうだった。あの人を見ていると、長生きをするというのは案外悪くないものなのだと思う。

 途中、思うところがあって自宅近くにある小さな公園に寄った。日が暮れるまではもうしばらく時間がある。なんとなくこの情景を目に焼き付けておきたかった。茜色に染まりつつある空は今日も変わらず綺麗だった。

 少し前に大きな病気をした俺は、沢山の人に助けられ支えられて、こうして今日も生きている。
 成功率の高くない手術を終えて目を覚ました時、母さんは泣いていた。俺もとても嬉しかった。万が一あの時に死んでいたとしても後悔のないくらいに自分は幸福だったけれど、それでも命が続いたことに喜びを感じた。
 それと同時に、思った。
 もし夢中になれるものがあったら、俺はもっともっと生きることに貪欲になれただろうか。目を開けたあの瞬間、この上ない感動を味わえただろうか。
 俺には“執着したいほどの何か”がない。それを見付けたくて自分の可能性を広げられる立海大附属中学に入ったけれど、結局何を掴むこともないまま附属高校に上がろうとしている。
 学校は楽しい。偏差値もそこそこには高いけれど、生徒は皆勉強以外のことも真面目に取り組む。それこそ悪ふざけにだって真剣だ。おかげで文化祭なんてその辺の学校とは比べ物にならないくらい盛り上がる。俺にはもったいないと思うくらい、良い環境だと思う。
 ――それでも。

 完璧な世界なんてもの、存在しないのは知っているけれど。
 時折、妙な空虚感を抱くことがある。
 ここには、俺に必要な“なにか”が足りていない気がするのだ。
 まるで幻でも見ているかのように頭がぼんやりとしていた。それでいてどこかでひどく冷静だった。この瞬間、この景色を、空気を、感情を残しておきたい。
 膝に置いた鞄からスケッチブックを取り出す。
 足りない“なにか”を描きたい気分だった。

 たとえば、俺の周りに個性豊かな仲間がいて。
 皆で同じものを目指して、頂点まで駆け上がって。
 ――それが、かけがえのない大切なものだったとして。

 鉛筆のみで描いたそれの出来がどうなのかは分からない。けれど少なくとも俺は、それを眺めていると心が満たされるようだった。スケッチブックから切り離してもう一度掲げるようにして眺める。

 そのとき、どこからともなく吹いた風が、描きあげて間もないそれを空中で躍らせた。

「……あ、」

 拾ってくれたのは小さな男の子だった。
 肩の上で切り揃えられた髪と大きな猫目が特徴的だ。
 口を固く結び無表情のままで差し出されたそれは、砂に汚れることもなく綺麗なままだった。

「どうもありがとう」
「……別に」

 こら、という低い声がして、俺はそこで初めて男の子の隣に別の男性がいることを知った。厳格そうな顔をした体格のいい人だ。男の子とはあまり似ていないけれど、不思議と同じ雰囲気を纏っていた。
 知らないひと。それなのに、どこかで出会ったことがある気がする。なんだか随分昔から知っているような懐かしさがあった。
 挨拶をきちんとしろと叱った彼は、傍らの男の子に『おじさん』と呼ばれてムキになる。かなり年上に見えたけれど、その表情はどこかあどけなかった。もしかしたら、俺とそう変わらない年齢なのかもしれない。

 今にも本気の追いかけっこを始めそうな二人に改めてお礼を言って、俺は暗くなり始めた公園を出た。
 家に帰ったらこの絵に着色をしよう。
 足りない世界の足りない部分を。想像に過ぎない俺の宝物を。


 ――そうだな。
   彼等の名前は、










******
ラストの解釈は御想像にお任せします。

2014.9.18.

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