トロイメライ | ナノ



 自転車で十分のところにある図書館は夏休みにも関わらずがらんとしていた。エアコンのよく効いた広い室内に眼鏡を掛けた司書が一人。あとは人の気配がない。そういえば隣町に大きな本屋ができたのだったと思い出す。日本人は皆新しいものが好きなのだ。あまりにも静かすぎる空間で、彼女は何を考えて仕事をこなしているのだろう。そもそも仕事はあるのだろうか。余計なお節介なのだろうが。
 俺は司書に軽く会釈をして、新刊小説のコーナーに入った。

 自分はそれなりに小説を読む方だと主張した時、驚かなかったのは柳と比呂士だけだった。他の奴等はあからさまに意外そうな表情をしていた。そりゃあ意外かもしれない。俺は間違っても勉強を好む部類ではないから。
 学校だってテニスをしたいが為に選んだ。そのために受験にも立ち向かった。文武両道なんとやらなんて考えるほど俺はできた人間じゃない。赤点さえ取らなければ進級できるのだ。わざわざ苦手なものに熱心に取り組むなんて勿体無い。人生は好きなようにやってこそだ。実際に数学は毎回ギリギリの綱渡り状態だ。こんなところで妙技を発揮しなくてもいいだろと思うのは自分だけでいい。おそらく部内の優秀組にばれたら鼻で笑われる点数だろうから、数学の答案用紙だけは真っ先に持って帰ってシュレッダーに突っ込んでいる。
 そんな自分が文学を嗜むのは、傍から見ているとやっぱりちょっと違和感があるのかもしれない。俺が読むのなんて大概が流行りの大衆小説ばかりだから、本物の文学少年少女には正座させられてもおかしくないのだろうけれど。

 背後の棚には小学生向けの課題図書がずらりと並んでいる。昔、本が嫌いだった頃はこういう少ない選択肢から無理矢理一冊選んでいたことを思い出す。
 自分が文字を好むようになったのはいつからだったろう。
 少なくとも中学に上がるまでは室内で静かに過ごすことは苦手だった。暇があれば太陽の下にいたいと思ったし、実際に友達と駆けて回るのは楽しかった。今だって嫌いなわけじゃない。
 けれど、いつからか、寝る前や通学に使うほんの少しの時間を読書に当てるようになった。初めて真面目に読んだ本は、確か、

「――――あ、」

 不意にある一冊に目を奪われる。
 著者にはアガサ・クリスティとあった。

 ――ただ一度、中学に入学してから熱を出して学校を休んだことがある。たまたま近くに用事があったからと部内で配られたプリントを持って来てくれた比呂士が、鬼の霍乱ですねと笑っていた。その時たまたま奴が持っていたのが『オリエント急行殺人事件』だ。
 余計なお世話ならすみませんねと少し嫌味を含めて、比呂士はその本を置いて行った。ぼんやりする頭で読んだそれは面白かった。
 それから、少しずつ、俺は小説に興味を持つようになった。本屋に行っても何が何だか分からず、学校の司書教諭に相談して読みやすい本を何冊か紹介してもらった。一冊読む度に感想と好みを伝えて、そのうち俺は先生と仲良くなった。今じゃあの人は多分この世で俺の次に俺の好む小説の系統を分かっているだろうなと思う。
 そんな、本来なら知るはずのない世界を切り開いてくれたのはアイツだった。

 少し離れた棚に話題のジュブナイル小説があり悩んだが、無難に課題図書を選ぶことにした。長期休暇の宿題が目的ならこれが一番いい形だ。興味のある本は、覚えてさえいればまた出会える。

『お前、俺のことどれだけ馬鹿だと思ってんの?』

 あの日の自分の言葉が脳味噌をぐるぐる回る。結局、喧嘩を売ることはできなかった。けれどそのおかげで今があるならまあいいかと思う。

『まさか。思っていませんよ』
『嘘つけ』
『いいえ。私があなたを好きになったのって、あなたの読書感想文を読んでからですもの』

 突然愛の告白を受けた俺は、しばらく考えて奴の気持ちを受け取ることにした。奴は言うつもりなんて露ほどもなかったんだろうな、と思い出して口許が緩む。
 一生このネタでからかってやろうと思う程度には、俺は確かに幸せだった。










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きみが好きなものを好きでいられる幸せ。

2014.8.5.

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