幸福オニオンスープ | ナノ
涙が、止まらなくなっていた。
拭っても拭っても、目が痛くなるだけだった。瞼を閉めても顔を傾けても何も変わらない。
その時背後で今の扉が開く音がした。
少しあとにその人が息を飲み、どさりと鞄を落とす。
「…………何が、あったんですか……?」
帰宅したその人――自分の旦那に向かって、小さな声で呟いた。
――――――――「たまねぎ」、と。
……じゃけん、玉葱を切れば涙が出るのは自然現象じゃ。誰がやってもそうなる。もうこれは大昔に決められたことで、今から捻じ曲げることはできんの。いちいちそんな小さいことでぐちぐち言うてたら遠くない将来ハゲるぞ、お前さん。
「十年以上前から不自然にも程がある髪の色をしているあなたにだけは言われたくないです」
似合うとるんじゃしええじゃろ。
本当は「その髪を好きだって言うたくせにー」とか揶揄ってやろうかと思ったがやめた。これ以上奴の機嫌を捻じ曲げてもいいことはない。奴はこう見えて結構根に持つタイプだ。敵に回さずに済むならそうしたい。ウチも随分保身的になってしまったものだ。
若い頃は(とはいっても今だってまだぴっちぴちの二十代な訳だが)もっと冒険していた。楽しいことなら相手を困らせようが何でもやった。比呂士を怒らせた回数、数知れず。そりゃあ詐欺師と呼ばれていた自分だ。そう呼ばれるに値する行動はきっちり取らねばなるまい。なんて言ったら比呂士は「なんでも都合の良いように捉えるのはあなたの長所ではありますけれどね……」と頭を抱えていた。喜んでもらえるなら何よりだ。
尚、この思考はすべてわざとである。脳味噌内から表に出さないんだからこれくらいのお茶目は許してほしい。なにせ仁王雅といえば詐欺師なのだ。今はもう柳生姓じゃけど。
諸悪の根源である玉葱をしこたま使ったオニオンスープを、比呂士は恨めしそうな顔で飲んでいた。
お前な、食材に罪はないんじゃけ無農薬で大事に育てて我が家に送ってくれたお前の叔父さんだか叔母さんだかに謝れ。新婚の夫婦宛とは思えんくらい大量だった話は今はするな。あと、ついでだから涙流しながら一生懸命作ったウチにも土下座しろ。
「謝罪でなくて土下座なんですか?」
そりゃあそんな眉間に皺寄せながら食われたら気分悪いからな。
玉葱、美味いじゃろ。
「少し苦いのですがもしかしてちょっとだけ焦がしました?」
黙れ。
向かい合った食卓でお互い存分に毒を吐く自分達は、あまりにも『夫婦』だった。
――こういうのって良いな、とぼんやりと思った。
たとえば色違いの歯ブラシとか、二種類あるシャンプーとか、当たり前のように同じ空間で夕食を食べたりだとか。しょうもないことで心配を掛けたりとか、怒らせたりとか、夜、一枚の布団で並んで眠ることとか。
かつての自分が予想していた以上に、自分達はうまく夫婦をやっている。
些細なことに一喜一憂できるのはいいことなのだと思う。
ウチが冒険をしなくなったのは、守るべき家があるからだ。比呂士が以前より遠慮せずズケズケ言うようになったのは、ウチが恋人ではなく家族だからなのだ。
大きな事件のない平凡で現実的な生活は、確かに幸せを与えてくれていた。
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好きなだけお互い罵り合うところが家族パロ82の魅力だと思っています。
2014.8.3.