神の子を愛し神を憎んだ少年の話 | ナノ


 入学してすぐの、雨の日のことだった。

 その日の降水確率はせいぜい四割程度で、神経質になる必要もないと高を括っていた俺は、昇降口から一歩も動けず打ち拉がれていた。じっとりとした空気に妙な汗が垂れる。悔んだってもう遅い。時間は巻き戻せないのだから。でも、もし、一度だけタイムトラベルができるとしたら、数時間前の自分に会いに行き「傘だけは持て、絶対にだ」と忠告したい。そんなことを考える程度にはちょっと頭がどうかしていた。ここから見える西の空はまるで空の色をしていない。まだまだ雨脚は強くなる。それくらい分かり切っていた。
 せめてもう少し小降りであったなら。いや違う、もうあと三日先の出来事であれば良かったのだ。たとえばそうであったなら、俺はこの土砂降りの中、真新しい制服が汚れることなど一切気にせず駅に向かって駆けただろう。ほら、水も滴る良い男って言うだろ、なんてふざけて笑うこともしたかもしれない。しかしここは本来であれば学区外の、かつてのクラスメイトに校名を告げると驚かれる以外になかった私立の中学校だった。未だ自分が居るという現実味を帯びないこの土地に、馬鹿を言って揶揄い合える友人がまだ俺にはいない。唯一、風邪を引くからやめておけとやんわり止めてくれそうな南米の血が混ざった幼馴染は家の手伝いがあるとかで早々に帰宅してしまった。俺はそれを咎めるつもりはまったくなかったが、ただ少しだけ、寂しいと思った。あと三日先の話であったなら俺には複数の友人が居ただろうし、正式なテニス部員に昇格していたはずだ。室内練習は十分な場所がないから体験入部期間の一年生は帰れなどと理不尽に追い出されずに済む。強くなる不規則な雨の音を聞いていたところで気は滅入るばかりで、俺は小遣いとお年玉を駆使して無理して買ったアイポッドの電源を入れた。曲の確認もせずに再生ボタンを押すともう解散してしまったグループの春の雨の歌が流れ出した。ピアノ伴奏とボーカルだけのゆったりとしたバラードだった。自棄糞になって噛み始めたガムは、こんな状況でも甘く大きく膨らんだ。
 どれくらいの時間そうしていただろう。
 ふと、背後の下足箱がばたんと鳴った。振り返るとそこには見たことのある顔があった。名前は知らないが、俺はそいつの存在をよく覚えていた。同じテニス部の、同じ学年の男子。緩くウェーブの掛かった藍色の髪はやや長めで、初めて見た時は随分可愛い顔をした奴がいたものだと思った。しかしその印象はすぐに覆された。一年生だけじゃない。そいつはけっして人数の少なくない強豪テニス部の中で、誰よりも実力を持っていた。繊細な見た目からは想像もできない、相手を圧倒し、時には恐怖の渦にさえ陥れる容赦のないテニスをする人物。それが俺の持った、名前も知らない彼のセカンドインプレッションだった。
 そいつは無造作にスニーカーを地に落とすと、何事もなかったかのようにそれに履き換え今まで履いていた上靴を自分用にあてがわれた場所に片付けた。下校しようとしているのは明白だった。俺は、こんな段違いに強い選手を体験期間だからと強制送還させるテニス部は無能だと思った。即戦力どころの話ではない。彼も自分で分かっているはずだ。それなのにどうして、こんなところで大人しく帰宅準備をしているのだろう。俺はどうしてこんなにも、彼の傍にいなければならないという義務感に駆られているのだろう。なにせ憤る理由など、自分は持ち合わせていないのだ。
 悩んだ末に掛けた言葉は彼の身体にゆっくりと浸透したようだった。おもむろにこちらを向いた瞳が俺の存在を認識する。憂いという言葉を、人生で初めて意識したのがその瞬間だった。頑なな無表情。それでも分かる。彼は震えていた。薄水色の折り畳み傘を握る右手にうっすらと血管が見える。まだ幼い、成長前の手を持つ彼を放っておく選択肢は存在しなかった。ぽつりぽつりと言葉を交わす。間もなくして、俺がテニス部の人間であることを知ると脱力したような笑顔を見せた。なんだ、普通だ。失礼甚だしいが俺はそう思った。彼の持つ空気があまりにも異色で、別次元に生きる人間に似た形のなにかのように思えてならなかったのだ。しかし少し話してみた彼は人間だ。きちんと。
 やがてお互いの名前を言い合い、無理矢理二人で彼の傘に入って駅まで歩いた。口の中に含みっぱなしだったガムはすっかり味がなくなっていたが、それと共に俺の体内で渦巻いていた憂鬱も消え去っていた。彼は度々俺の制服の裾を掴んでは離し、また掴んだ。雨が嫌いなのかと問うと、苦虫を噛み潰したように眉を顰める。

「嫌いというより、苦手かな。俺、天然パーマなんだけど、雨の日だとくるくるになっちゃって」

 表面さえろくに取り繕えない彼に好感を持った。人を闇の底に葬るようなテニスをする彼が、黒く厚く終わりの見えない雲に畏怖の念を抱く様は非常に面白いものだった。気晴らしにと先程まで再生していたアイポッドのイヤホンを彼のそれに嵌め込む。いい曲だね、と彼が目を細めたその瞬間、俺達は友達になったのだと思った。
 俺と幸村君が、はじめて会話をした日だ。







 病室の扉は力を入れずとも開いた。閑散としたこの大部屋を使用しているのは現在は彼だけだ。つい先日まで相撲中継にいちいち文句を言う頑固な爺さんがいたのだが、自分はもう駄目だとおいおい泣き出した一週間後、元気に退院していった。口煩い人だったが、いなくなってしまえば案外寂しい。四人用の病室に幸村君だけが取り残されて、今ではまるで最初から備品であったかのようにその景色に溶け込んでしまっている。元より白い彼の肌は直射日光を離れて白さを増した。清潔感のあるシーツは線の細い彼の身体に違和感なく馴染んでおり、同級生のそんな姿は、けっして見ていて気持ちの良いものではない。彼を病人という括りに含めてしまわないでくれと誰かに向かって叫びたかった。それが誰かは、分からない。
 俺の姿を確認した幸村君は力なく微笑んだ。そんな表情をするなと本人に向かって言える度胸が俺にはなかった。“待っていたんだ”。零された言葉に、感情はない。

「冷蔵庫の中にケーキがあるんだ。良かったら、食べてくれない?」
「え、だって、幸村君への見舞いだろ」
「うん。でもちょうど今、少しだけ食事制限が出ていて食べられないんだ。向こうは厚意で持ってきてくれたわけだし、わざわざ言うのも変だから貰っちゃったんだ」
「……そっか」

 冷蔵庫の中に入っていた箱には知る人ぞ知る隠れ名店のロゴが入っていた。普段であればそれだけで喉が鳴る代物だ。蓋を開けるとそこにはきらきらしたケーキが何種類もぎっしりと詰まっている。なるほど美味そうだ、と思った。しかし食欲は湧かず、胃袋も鳴らない。それが何を意味するのか彼は想像もしないだろう。ブン太がいちばん美味しそうに食べてくれる気がしたんだ。その言葉が脳天に突き刺さる。味わって食べなければならない。他に何があろうとも。そんな強迫観念に捉われている時点で、俺はケーキの味を殺している。
 幸村君は静かに窓の外を眺めていた。あの日を境に、雨の日は彼と肩を並べて下校するようになった。特別そういう約束を交わしたわけではなく、雨が降ると彼は自然に俺の傍へとやってきた。そんな幸村君が可愛いと思った。超人的な雰囲気を持つ彼が、こういう時は頼りない弟のように思える。

 ――飲み込まれる、って、そんな気がしない?
 ――雨に?
 ――そう、雨に。

 一度そんなことを話したのを、今でもよく覚えている。雨に怯える彼はこの上なく人間らしかった。そんな彼が、今、俺の目の前で雨音に浸っている。頭が痛くなる。しかし見ていなければならない。俺が目を逸らしたら、誰もこの光景を覚えていることができない。

「ここから、ね」
「うん」
「紫陽花が見えたらいいなあって、思うんだ。もう少し、先の話だけれど」

 返事をきちんと発した自信はなかった。ああ幸村君は、俺の友達だった幸村君は死んだのだと思った。ここに在るのは生きる屍だ、抜け殻だ。人間なんかじゃない。
 彼にとって、テニスは人生そのものだった。テニスが幸村精市の全てを形成していたのだ。それを取り上げられて、彼は死んだ。俺は無性に腹が立っていた。何故そんな生き方しかできないのだ、と。そして、そんな生き方しかできないのであれば、何故もっとしがみ付こうとしないのだとも。縋ったって良いじゃないか。人に惨めだと思われてもいい、とどうしてそう考えられない。堕ちるところまで堕ちたって構わないじゃないか、テニスと共に生きられるのなら。
 俺はあれから随分古くなった電池残量の少ないアイポッドを取り出すと、あの時二人で聴いた春の雨の歌を最大音量で流した。イヤホンから漏れる音が他の患者の迷惑になったって知るものか。幸村君がいい曲だと笑ったり、ここは病院なんだから駄目だよと諭してくれればそれでいい。しかし中身を失くした器は、こちらを見ない。
 食器を使わず手掴みで口にしたケーキは、こんな状況でも甘かった。良い曲かもしれない。だけどやっぱりバラードなんて嫌いだ。値段もそこそこする名店のケーキを、俺は惜しむことなく次々食べた。最後の一口は涙の味で滲んでいて、よく覚えていない。

 幸村君が入院してしばらく経った、雨の日のことだった。










******
今は亡き人。

2013.9.25.

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -