フィーリング・キラー | ナノ
五感を奪われた。完全に感覚が狂ってしまった。
かろうじて理解できるのは多分俺は今寝転がっているのだろうという事実だけで、あとは何も分からない。色も、音も、何もかも。まばたきを繰り返すが、それすら本当にしているのか分からないほど見えるものに変わり映えがなく、周りには闇しか存在しない。
不思議と怖くはなかった。心地良いとさえ感じた。幸村と打ち合った後は絶望しか残らないのに、どうして同じ感覚でこうも違うのだろうか。
というのも、たった今俺をイップスに陥れたのは幸村ではない。誰にでも紳士的で優しい、学校ではジェントルマンとか呼ばれているアイツだ。テニス部の奴等は知らないが、柳生だってイップスを自由自在に操ることができる。アイツの一番近くにいる俺だからこそ知っている。
たとえば視覚の場合。柳生の傍にいると、柳生以外の全てがぼやけて見える。目をこすってもそれは変わらず、光を失ったかのようにだんだん何も見えなくなる。
次に聴覚。柳生の低めのテノールは聞くだけで心が穏やかになる。仁王君、と名前を呼ばれる度にその声がぐるぐると身体中を巡って、周りの喧騒がどこか遠くへ行ってしまう。
そして触覚。隣を歩いていた柳生がふとした時に足を止め、俺の方を向き、仁王君、頭に埃が付いていますよと俺の髪を優しく撫でる。触れられた箇所に熱がこもるのを感じ、髪には痛覚や神経がないというのは大嘘だと俺は思う。足ががくがくと震えて、立っていることが困難になる。
更には嗅覚。柳生のその逞しい肩に抱き寄せられると、ふわりと漂う良い香りで包まれる。めいっぱい部活に励み汗をかいた後でも分かるシャンプーと洗剤の匂い。柳生の匂い。
目を閉じてしまうと空気に襲われる気がして、けれど目を開けてなどいられる状態ではなく。全身が硬直してしまう俺に柳生は優しくキスをくれて、次第にそれは深いものへと変わっていく。口の中に甘さが広がり、そして――味覚を奪われたのち、俺は何も分からなくなる。
急に視界が明るくなった。景色が輪郭を取り戻し始め、俺は呼吸をしていることを実感する。
傍らに座る柳生が横になる俺を見下ろして頬を触っていた。
――あたたかい。
人というのはこんなにも。
柳生はたった一言、ごめんなさい、とすまなそうに言う。
無理をさせてしまいましたね。
そんな風に思ったことはない。柳生はいつも優しいから、二人でいる時くらい柳生がしたいようにすればいい。だけどまあ、そうだな。五感を奪う時はあらかじめ言ってくれた方が助かるが。
お前さんとおるとな、俺はイップスになってしまうんよ。
そう伝えると柳生は、おそらく仁王君にしか効果がありませんよと俺の好きな笑顔で言った。
せっかく形を成した家具やその他何もかもが、再びおぼろげになりつつあった。
******
柳生の事が好きで好きで周りのすべてのものが分からなくなる仁王。
仁王にとっての“世界”は柳生を中心に回ってる。
2010.11.24.