文月の空 | ナノ
空を眺めるにはこの上ない夜だから、と柳生の運転する車の助手席に乗って海に行った。
七月といえども陽も落ちると少しばかり肌寒い。海沿いとあらば尚更だ。
薄手の上着の一枚でも持って来ればよかったと苦笑しながら、柳生と二人で砂浜を歩く。
少し欠けた月はそれでも明るくあたりを照らしている。
月光の他にはまばらに微かに見える星と波の音、あとは自分達の足跡が残った砂しかない。
静かな夜だった。
学生時代に見慣れてしまい、すっかり飽きたはずの景色がひどく輝いて見える。
海はきっと心を清く、正しくする。
仁王君、覚えていますか、という柳生の言葉を皮切りに昔の話をした。
あの頃は早く大人になりたかった。大人にさえなれば親の束縛から逃れ、自分の稼いだお金で好きなように生きていけると。
結局それはガキの持つイメージの域を超えなかったが、二十三になった今、それなりに充実した毎日を送れていると思う。
仕事があって、毎日食事をできるくらいの収入がある。雨風を凌げる家もある。
俺はまだまだ未熟だが、十分すぎるほどに幸せだと思う。
大人の思う『充実』なんて所詮こんなものだ。
「ねえ、仁王君」
あの頃より少しだけ大人びた柳生の声に、耳を傾ける。
「あれから何年も経ったのに、この場所は、中学の頃からずっと変わらないままですね」
「そうじゃな」
「私達も、曲がりなりにも社会の歯車になりましたし」
「ははっ、そうじゃな」
「……ねえ、仁王君」
「月はこんなに綺麗なのに、私達は随分汚れてしまいましたね」
「……うん」
そう言って、柳生はそのままいなくなった。
俺は一人、どうやって家まで帰ろうと頭を働かせながらきらきら輝く水面を見ていた。
あの頃は早く大人になりたかった。
怖いものなど何一つなかったからそう思うことができていた。
けれど俺は大人になった。善悪も、常識も、このまま身を寄せて生きていたって自分達に未来がないことも――全部知っているのだ。
知っていて尚、寄り添う方を選ぶ勇気が自分達にはなかった。
そうなってしまったら移ろうのも早いのだ。なんとも大人は汚い生き方しかできない。
昔の柳生なら、きっとこれと同じ状況で「月が綺麗ですね」と言ったろう。
けれど今確かに言えることは、柳生は俺を愛さなくなったのだということだけだ。
“月はこんなに綺麗なのに、私達は随分汚れてしまいましたね”。
汚れてしまったのならいっそ滅茶苦茶に汚い結末が良かった。
どうしてよりによって、こうも美し過ぎる一日を最後に選んだのだろう。
綺麗な世界に自分だけが取り残された感覚。
ひやりと濡れた頬に耐えられず、誰に問う訳でもなく口にした。
なにも知らなければよかった?
文月の空は、今日も今日とて、美しい。
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『月が綺麗ですね』の反対語が『月“は”綺麗ですね』だと知って。
2013.7.23.