薄紅の幻 | ナノ
あの日自分が恋したのは桜の木だったのではないかと、冗談でなくそう思うことがある。
桜の季節になると決まって体調を崩す自分が今年は恐ろしく健康であった、という事実に気付いたのは、桜並木がすっかり緑に染まってからのことだった。
あ、と気付いた時ふと一枚の葉と目が合ったように感じて、なんとなく視線を逸らす。儚くも美しい薄紅色の面影はそこにはなく、ただ堂々とそこに佇んでいた。
彼とはじめて出逢ったのは、満開の桜の木の下だった。入学式の始まる少し前の時刻、真新しい制服が汚れることなど微塵も気にしていない様子で、幹を背もたれに眠っていたのが彼だった。遅刻してはいけないと遠慮がちに肩を揺すり――私は、彼の金色の瞳に魅了されたのだった。
「あ、の」
「……お前、俺が見えるんか?」
「……えっ?」
もちろんそれは冗談――彼なりの挨拶だったのだろう――なのだが、騙されたと気付くのはまだもう少し後のことだ。
桜の木の下で彼と出逢い。
次の年の桜の木の下で想いを告げ。
――そして、次の年の桜の季節、彼は何も言わずに私の前から姿を消した。
私が数年共に過ごした“仁王雅治”は夢か幻だったのではないか。そう考えてしまうほど何も残していってはくれなかった。
『なあ柳生。お前はこの桜を、純粋に綺麗だと思えるか?』
『……どういう意味ですか?』
『分からんなら、ええよ』
お前はずっとそのままでおってな、と彼は笑っていた。
ごめんなさい、私は、あなたの望む私ではいられなかったみたいだ。
私は桜が嫌いになった。春が近付くと喉がつっかえたように息苦しくなり、食欲は消え失せ、外を歩くと目眩がするようになった。清廉潔白な桜をこの上なく憎んで毎日を過ごした。
そんな自分がだ。
(今年は、春が来たことを意識することさえなかった)
人間は順応性の高い生き物だ。
自分の中ではもう、“仁王雅治がいない”のが日常になりつつある。
「……仁王君、私を、許してくれますか?」
あなたのいない世界に慣れてしまう私を。
誰もいない桜並木でひとすじ分だけ涙を零す。静かにそれを拭うとすっと心が軽くなった。
もしかしたら来年は、また桜を綺麗だと思えるようになるかもしれない。
これでいいんですよね、仁王君。
心の中で呟くと、阿呆じゃなあと彼が笑いながら答えてくれた気がした。
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スパコミペーパー(にしたかったが印刷が間に合わなかった)。
2013.5.29.