黄金の景色 | ナノ



 特に遅刻寸前という時間でもないのに、乱暴に教室に入ってきた赤髪は息を切らしていた。
 何を目的に全力疾走する必要があるのだと考えるより早く、奴が俺の方へとやってくる。どういうことだよ、と今にも殴りかかってくるのではないかと思う声色で放たれたその言葉の意味が分からない。おはようも無しに第一声がそれか。別に俺はデタラメな朝練時刻を伝えたりしていない。そもそも昨日はろくに会話もしていないじゃないか。
 状況が理解できずに首を傾げると、丸井が押し黙った。

「……お前、今日まだヒロシに会ってね―の?」
「会うとらんけど、なんで」


「アイツ、気が狂ったみたいなんだけど」



 そんな普通の、冬の日のことだ。










 A組の扉を勢いよく開けると、ざわついていた生徒達が示し合わせたかのように静まりかえった。友人同士で身を寄せ合って内緒話を始める連中もいたが、そんなこと気にしていられない。歩数で覚えてしまったその席、普段と変わらぬ様子で読書を嗜むクソ野郎の襟首を思いきり掴む。その場の空気が更に凍り付いた。

「ああ、仁王君、おはようございます」
「おはようじゃないわ阿呆」
「あー……ええと、ご機嫌斜めです、ね?」
「誰のせいじゃ」

 俺が怒り狂っているのが馬鹿らしくなるほど奴の声は穏やかで、そんな些細なことにまた腹が立つ。
 ここで話していても埒があかないと察し、黙ったまま奴のネクタイをこれでもかという程引っ張った。柳生は体調不良ってことにしておいてくれ、と誰に伝えるわけでもなく言い残しその場を去る。きっと嵐に見舞われた気分であろうA組の奴等には同情するが、文句があるなら俺ではなくこの馬鹿に言ってくれ。
 なんだってコイツは、こんな自棄を起こしてしまったんだ。よりにもよって、学校が代表する優等生である柳生比呂士がだぞ。
 重そうなレンズに似合わないきらきら光る髪を眺めながら、俺は長い溜め息を吐いた。





 授業が始まる前の屋上には当然誰もいなかった。
 外の風に当たると嫌でも自分の中に冷静さが戻ってくる。その瞬間気も緩み、皺になるほど握っていたネクタイをうっかり離してしまったが、奴は逃げも隠れもしなかった。

「何考えとるんよ、お前さん」
「……すみません」
「謝れなんて言うとらんじゃろ。質問に答えろ」
「……」

 昨日までとはまるで違う柳生のほうへと向き直る。
 黄金色に染められた髪は陽の光を浴びて更に眩しい。センスの無い眼鏡だけが、昨日と同じままそこにあった。

「俺が昨日、あんなこと言うたから?」

 柳生が声を殺したのに気付かないほど、俺は愚か者ではなかった。



 自分の病気の話をするのは、家族以外では柳生が初めてだった。
 病気といっても別に命を脅かすものでも痛みを伴うものでもない。ただ生きるのにほんの少し不便なだけの、それこそ生まれた時からこの状態である俺にとってはただの日常でしかなかった。相貌失認という言葉の意味を、俺は結局よく知らない。

「……何なん、お前」
「……」
「お前が普段と違う格好しても、俺がきちんと気付けるかどうか試したん?」
「……違います」
「だったらなん、当てつけか。嫌がらせ?」
「違います!」

 小さい頃から人の顔を個別認識することができなかった。目や鼻や口があることは分かる。顔という存在も分かる。けれど自分の顔と他の人間の顔のどこが違うのか、それが分からないというのが俺の持つ病気だった。人間も他の生き物と変わりゃしない。アリの行列を見て、どれがどのアリか分からないのと同じだ。生まれた時から俺の世界はそうだった。
 そんな俺にとって、髪型や服装、仕草、声というのは識別において最も重要なものだった。
 俺の周りの人間がどんな顔をしているのか俺は知らない。だが俺は奴等を認識することができる。赤髪は丸井だし、癖の強い縮れ毛は赤也、常に親父臭いキャップを被っているのが真田。俺は今までそうやって他人を区別して生きてきた。イリュージョンなんてけったいな技が使えるのも自分の観察眼の賜物なのだ。

 怒りはすっかり冷えてしまって、後に残ったのはなんともいえない感情だった。柳生がどんな表情をしているのか分からない。感じ取る力が俺には欠けている。なんとか言えよと縋りつくように言葉を零すと、柳生のあたたかい指先が俺の髪に触れた。

「――昨日、お話を聞いた時」
「……」
「あなたの髪が銀色をしているのは、そのせいかなと思ったんです」

 え、と漏らした声は音になることなく消えていった。

「集合写真を見てもどれが自分か分からないなんて哀しいですから。他の誰とも違うことをして、自分の存在を確実なものにしようとしているように思えました」
「それがなんでお前の気が違った行動に繋がるんじゃ」
「……あなたに、真っ先に見つけてもらいたいと思ったから」
「……阿呆くさ」
「すみません」

 だって私がいちばんじゃないなんて不服じゃないですか、と、俺の髪を撫でる手を止めないまま柳生は言った。
 他人の体温というものは、どうしてこんなにも――心地が良いのか。
 俺は奴の顔を知らないし、どんな表情をしているのかも理解できない。けれど優しい顔をしているに違いないと思った。
 染められたばかりの髪に触れる。はじめて傷めたそこはそれでも甘い香りがする。俺のものとは随分違っていた。

「なあ、今日はうまく言うとくき、体調崩したってことにして帰りんしゃい。そんで明日は髪戻して何事もなかったように登校せえ」
「……ですが」
「俺、何年お前の相方やってると思ってる?」

 お前のことなら分かるよ、そんなことせんでも。
 眼鏡の向こうの瞳に届くように口にした。
 他の人間なんてどうでもいい。俺のいちばん好きな顔は間違いなくこれなんだと思った。



 普通の冬の日である今日、普段とは違う何かが、確かに輝いていた。










******
もう四年ほどお世話になっている神田姉さんへ。
遅くなりましたがハッピーバースデー。

2013.2.22.

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -