the Heart Is Vacuity. | ナノ
※大学で初めて面識を持つ設定のパラレル
※とても反社会的
※読んだ後の苦情は受け付けません
カーテンの隙間から朝の光が射し込んだ。
二人分の大きなベッドに横になった彼は、同じく横になった私の頭を撫でて、帰りましょうかと微笑む。眼鏡の向こう、私だけが知っている大好きな瞳だった。
静かに頷き、洗面台に立った彼を眺めながら髪を梳かす。ゴテゴテとわざとらしい装飾をされた空間に、綺麗な彼が凛と佇んでいる。あまりにも混じり合わないその姿がただただ愛おしかった。
講義室の隅、読書をする彼を初めて見たのは数年前、大学に入ってすぐのことだった。
あまりにも地味な服装で、彼はそこにいた。そのまま空気に溶けて消えてしまうのではないかと思う儚さを持っていた。立派なカバーのかかった分厚い本の方がまだ存在感があるように思える。
あまりにも異様な光景だった。確かにそこに彼はいるのに、死人を見ているような気分になる。
気が付いた頃には、私はどうしようもなく彼に魅かれてしまっていた。
彼はいつも一人だった。
近付くと逃げられて、それでも無理矢理踏み込んだ。
興味を持つくらいなら勝手にしなさいと放置されていたけれど、彼はとても頭の良い人だったから、そのうち私の好意にも気が付いた。自惚れや見当違いなら申し訳ないのですけれどね、と前置きをして、彼は私にこう言った。
「私のことは、好きにならないでくださいね」。
話し相手にならいつでもなってあげますから、それだけはやめてください。恋をするなら他にも相手は山ほどいるでしょう、と。
その言葉がますます私を虜にするのだと、彼は知らなかったのだろう。
確かに男は余るほどいる。けれど彼は、一人しかいない。好きなんて言葉では物足りなかった。いっそ恋人でなくてもいいから私のものにしたいと思う。とても醜くて汚い感情だった。彼だって少なからず私を気に掛けてくれているはずなのに、どうして自分から自分を孤独にしてしまうのかが分からなかった。
傍にいたい。
そう言って彼の手に自分のものを添えると、彼はとても弱々しくそれを振り払った。
「あなたの言う“好き”は、どういうことですか?」
友人としての好意なら、私も喜んで受け入れましょう。ですが、あなたは違うでしょう。手を繋いだり、キスをしたり、身体を重ねたいと思っているのでしょう。私はその気持ちに応えることはできません。
私には、できませんから。
あなたのことを好きになればなるほど、辛いんです。
彼は不治の病を患っていた。
自分に流れる血は穢れている。
愛してしまってからでは虚しい。だから人との関わりを遮断して、今まで一人で過ごしてきたのだと彼は言った。
そんな優しい彼が、これ以上ないくらいに哀しかった。
「……柳生、ごめん」
「……」
「その話をして、これでまた一人に戻れる、って思ってたと思う。でも無理」
「……え、」
「やっぱりウチは、柳生がすき」
彼の膝に跨るように座って、初めて交わしたキスは涙の味がした。怖くないんですかという問いに、私は抱き締めることで答えた。それが柳生比呂士を形成する一部であるなら、どんな形をしていても怖いだなんて思わなかった。
頬を手のひらで覆ってやると、彼は顔をこれでもかというほどしわくちゃにして泣いた。初めて見る眼鏡の奥の瞳は、とても優しかった。
何度か二人で出掛けたけれど、彼の指定するところはいつも映画や美術館といった大人しいところばかりだった。万が一怪我をしてはいけないから、と笑ったその表情がとても辛かった。
二人で数えきれないくらい映画を見て、お気に入りの本を貸し借りしては感想を述べ合う。大学を卒業してもそれは続いた。
汚い私達がする恋愛は、あまりにも純粋で綺麗すぎるものだった。
一度、抱いてほしいと頼んだことがある。
彼を恐ろしいと思ったことはなかったし、彼と一緒に死ねるならこれ以上素敵なことはないと思った。
けれど普段は私の我侭を呆れながら聞いてくれる彼が、その時ばかりは感情的に私を叱った。
「だからあれほど、私を好きになるなと忠告したじゃないですか!」
私は、泣き喚き暴れる彼の肩を抱きしめて、ごめんねと言うしかできなかった。
自分は軽率だったのだろうか。私が思っている以上に現実は残酷なのだろうか。どれだけ考えても分からない。だって自分にとっての最善策であることは今でも揺るぎない事実だからだ。
「私はね、」
「うん」
「ずるい男なんですよ。自分の話をしたら、あなたはきっとそれすら受け入れてしまうのだろう、と、なんとなく思っていた」
「うん」
「それでも、話したんです」
「……うん、ありがとう」
彼は私と共に過ごしているうちに、すっかり孤独が怖くなってしまったらしい。
一緒にいたいと思う私には、これ以上ない好都合だった。
それ以来、私達は“そういうこと”を目的としたホテルに泊まりに行くようになり、そのたびただテレビを見たりルームサービスのご飯を食べたり、他愛もない話をして過ごした。
予防法はいくらだってあるのに、それでも彼は頑なに私を抱かなかった。そんなにウチに魅力がないのか、とからかうように文句を言っては、そうですよ、自分で気付きませんでしたかと彼も返す。コノヤロウと彼の胸板を殴り、そのあと二人で寄り添って泣いた。
これほどまでに愛した男は未だかつていない。彼も私を本当に大事にだいじにしてくれる。
こんな幸せなことは他にない。きっと。
お待たせしましたと笑った彼に、私も精一杯微笑んだ。
交代で洗面台に立ち、洗顔に誤魔化して少し泣いた。
――彼の身体から、少しずつ肉が落ちていることに、私はきちんと気付いている。
一生を、添い遂げたかった。
けれどそれは叶わない夢で、遅かれ早かれ、彼は私を置いて去ってしまう。
(だからウチは、抱いてほしいと言ったのに)
私の思う『幸せ』は、彼にとっての『最悪の結末』だ。
愛する人が哀しむことはしたくないと思った。彼が笑っていてくれるならどんなことだってする。それが自分の感情を押し殺すことになったとしても。
ねえ、せめて一緒に死ねないなら。
生涯あなたを愛し続けることだけは、許して下さい。
その言葉を飲み干して、私は愛しい彼の元へと戻った。
the Heart Is Vacuity.
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最悪の中の最善策。
2013.1.30.