隣のとなりの王子様 | ナノ


 隣のとなり。
 それがあたしと奴の関係。
 幼馴染と呼べるほど長い時間を共に過ごした訳ではない。友達、という単語すら堂々と言えず喉につっかえてしまう。
 ならばただの知り合いなのかというと、それもけっして違うのだ。
 隣の隣という言葉が何よりしっくりきたし、それ以上に説明のしようもなかった。





 物心がついた頃から、奴――柳生比呂士はあたしの近くにいた気がする。
 少なくとも幼い頃、自分達はとても親しかった。
 家一軒挟んで隣同士。仲良くなる理由なんてそれだけあれば十分だった。
 当時の奴といえばそりゃあもう泣き虫で臆病で、背もあたしより随分低かった。転んで膝小僧を擦り剥いたとか、小さな虫が飛びだしてきたとか、そんな小さなことで立ち止まってはぴーぴー泣く。ふみちゃん、ごめんね。どうして謝るのかは分からないが奴はその度あたしに言った。
 男の子なのに情けないな、と何度思ったことか。
 それでも離れなかったのは自分の世話焼きである性分からか、あるいは純粋に奴といるのが楽しかったからだろうか。同じ幼稚園に仲の良い子は他にもいたけれど、いつだってあたしのいちばんの友達はあの小さな男の子だった。
 小学校に入ってもそれは変わらないと思っていた。

 隣の隣の家、というとても近い距離であるのに、その僅かの差は自分達の学区を分けた。
 いつも必ず自分の近くにいた人間がいないのはとても複雑で不思議だった。けれど自分は昔から順応性が高かったため、小学校に上がってしばらく経つとその違和感も気にしなくなっていた。
 新しい友達ができるたび奴との繋がりが薄まっていくような気がした。それなのに自分は、その感覚さえ無視してきた。会いたいと思えばいつでも会いに行ける距離だったのに、なんとなく、もう二度と会わないのだろうなと思っていた。本当にそう考えるくらい、奴とはもう顔を合わせることすらなかったのだ。



 それから、数年。
 あたしは真新しい緑色のブレザー制服を着て、潮の香りがする道を歩いていた。
 気の迷いで受けた“そこそこいい中学校”の入学試験に、何の手違いかうっかり合格してしまったのだ。
 顔見知りが誰ひとりとしていないからなんだ、そんなことでへこたれるあたしではない。自分はこれからここで頑張っていくのだ。そう自分に言い聞かせ、立派な正門をくぐった。

 懐かしい茶色の髪を目の端で捉えたのは、その時だ。

 見間違いか、もしくは幻だと思った。
 あたしの知っている奴はあんなに落ち着いた雰囲気を持った人間ではない。あんなに大人びて、一丁前に眼鏡なんて掛けて、背筋をしゃんと伸ばして堂々と歩いたりしない。
 けれど振り返ったその先、幼い頃の面影を――あたしは確かに、見た。

「――――」

 ひろくん、と。
 あの頃と同じように声を掛けることが、どうしてもできなかった。わざわざ言葉を選ばなければいけないような相手でもない。それなのにあたしはその場に立ち尽くしていた。
 胸がずきずきと、煩いくらいにざわめいた。
 躊躇いがまた躊躇いを生んで、そして。
 ふいにこちらを向いた目が逸らされた時、あたしはついに迷うのをやめた。

 そうか。
 あたしと奴はもう他人なのか、と。
 ただの『隣のとなりの人』でしかないのか、と。
 心の中で、何かが砕けて割れた気がした。
 あれはもしかしたら幼い恋心だったのかもしれないな、と思ったのはそれから随分経ってからのことだった。



 奴を忘れるのにたいした苦労はしなかった。入ってすぐの頃は勉強についていくのも大変だったし、慣れない学校生活を精一杯楽しむべく必死だった。充実した毎日の代わりに失うのは『一人でいる時間』で、あまり余計なことを考えたくなかったあたしにとってはそれすらメリットでしかなかった。
 きっとこのまま何もなかったことにできる。

 と。
 思っていた。

「……嘘だろ」

 何事もなく三年間を過ごし、卒業して、「そういえばそんな人いたような気もする」程度に思い出すくらいの人になればいい。そう思っていたのに、二年生に進級すると同時にその理想は打ち砕かれた。
 学年だけでも九百人近い人数のいるマンモス校で、同じクラスになる可能性なんて……ええと、何パーセントだ? まあいいや。兎にも角にもだ。そんな米粒以下の大きさの奇跡が、起こってしまったのである。

 この話には、実はこれ以上にすごいオチがある。
 どうせ奴はあたしのことなんか覚えちゃいない。中学なんて教室でグループができているのが当たり前だし、特別なことがない限り関わることもないだろう。そう言い聞かせて教室の扉を開けた。

 ――席が隣の隣だった。

 目が、合って。
 また、入学式の時のようにそっぽを向いてくれればよかった。それなのに奴は、一呼吸おいてあたしの名前を呼んだのだ。
 忘却の彼方に葬り去りたい記憶の切れ端。それでも鮮明に覚えているのは、

「……丸井、さん」

 奴の声が、同時に最大級の爪跡も残していきやがったからだ。



 それっきり、奴とは話をしていない。
 丸井さん、だなんて呼ばれ方もあれ一度きりだった。
 中途半端に古傷を抉るくらいなら最初から関わらないか、もしくはいっそド派手に傷付けてほしかったと思う。
 奴のどこにそうさせる要素があるのかは分からないし、正直な話、今でも信じたくない。
 けれどあたしは、今でも心のどこかで奴に焦がれているのだ。
 笑っちゃうくらい冷たく響いたあの言葉に――覚悟をしていたはずなのに、今更ショックを受けたくらいには。










 季節は巡り、冬になった。
 学級閉鎖寸前だった教室も賑わいを取り戻し始めた頃、人より数日遅れて熱を出した。
 滅多に病気にかからない自分にとって、その症状は必要以上に身体に重く圧し掛かった。息が苦しく、視界もぼんやりとする。毎日の食事を何よりも楽しみにしている自分には、食欲がないという感覚が新鮮だった。
 無理矢理お粥を流し込み、苦い粉薬を胃袋に収めたあと倒れるように横になる。普段の自分ならば「これを機にちょっとくらい体重が落ちないものかしら」なんて楽観的に考えるのに、とてもじゃないけれどそんな余裕はなかった。
 今日は夕方まで家族がいなくて本当に良かったと思う。特に下のチビ達がいたら、姉ちゃんが心配だなんだとうるさくしたことだろう。気持ちは有難いのだが、落ち着かないことこの上ない。

(……顔、あつい)

 ガンガン痛む頭を押さえながら、枕に顔をうずめる。
 起きたらとびきり甘い白桃の缶詰でも食べようと心に決め、あるかないか分からない睡魔を無理矢理呼び寄せた。





 ――次に意識を取り戻した時、あたしはなぜだかとても心地が良かった。後頭部のあたりがひやりとして気持ちいい。蒸していた空気は程よくきれいなものに変わっており、それだけで随分と呼吸をするのが楽に思えた。
 帰宅した母さんが面倒を見てくれたのかもしれない。近くに人の気配がする。心配を掛けるのは嫌だと思っていたけれど、やはり一人は心細いものだ。誰かが傍にいると安心する。
 つい弱気になってしまったあたしは、普段言わない我侭を少しだけ言ってみた。
 ねえ、のどかわいた。
 あたしの言葉を聞いたその人は、溜め息を吐いたあと「少し待ってもらえますか?」と低い声で……待て、『低い声』?

 目をこじ開けて飛び起きる。
 あたしの部屋に、隣の隣の人がいた。

「おはようございます」
「おはよう……じゃないだろ、何、してんの……?」
「見て分かりませんか。お見舞いです」
「あーうん、そういう意味じゃなくて……」

 そもそもなぜあんたがここにいる。
 そんな疑問を口にする暇もなく、「いいから横になっていなさい」と窘められた。
 相変わらず状況がさっぱり分からなかったけれど、少し目眩がしたのでお言葉に甘えさせていただく。枕の上の氷枕――敷いてくれたのが母さんだかコイツなのだかは分からないが――に熱い頬を押し付けると、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。

「……えっと、イチから説明してもらっていい?」



 どうやら奴は、学校で配られたプリントを届けにわざわざ家に寄ってくれたらしかった。玄関先で用事を済ませるつもりが、久々に見る姿に喜んだ母さんがあたしの部屋に入れた。あまりにも強引だったため断り切れず、顔を見るだけ見てから帰宅しようと思ったらしい。
 しかし扉を開けるとそこは予想外の惨状が広がっており、やれ氷枕だ換気だと世話を焼いているうちにあたしが目を覚ましたのだそうだ。
 いくら幼い頃を知っている間柄といえど、思春期のオンナノコの部屋に簡単に男を上げていいものなのだろうか。母親の価値観を本気で疑う。

「……事情はわかった、けど」
「けど?」

 根本的なところが、何ひとつ不明瞭なままだった。
 幼馴染ですらなくなってしまったと思っていた彼が、どうしてプリントを届けようという気になってくれたのか。
 ここにいるのは可愛らしくも泣き虫な“ひろくん”じゃない。“柳生比呂士”なのだ。あたしのことを『丸井さん』と呼んだ、頭が良くて先生からの信頼も厚い、柳生。

「……あたし、嫌われたんじゃなかったの?」
「……なぜ?」
「全然喋んないし」
「あなたがそうしたがっているように見えたから、合わせたにすぎませんが」
「――あたしのこと、丸井さんって、呼ぶし」
「……あぁ」

 奴は眼鏡を押し上げながら、ここからでは様子が分からないけれど、少し目を逸らしたように思えた。

「不本意じゃないですか」
「は?」
「男女が名前で呼び合うと、それだけで根も葉もない噂が立ちますし」
「……そっか」

 なるほど、そういう。
 そりゃああたしなんぞと噂になったら困るわな。だって学校では(どうしてだかさっぱり分からないけど)そこそこ女子におモテになる柳生比呂士君だもの。根も葉もないのは事実だ。あたしと奴はそんな関係じゃない。ただの隣のとなりの人なわけで。
 奴に悪気がないのは分かっている。けれどこれ以上心を抉られるとどうしようもない。確実に熱くなっていく目頭に気付かれる前に、早く話題を終えて帰ってしまえばいいのにと思った。

「……うん、分かった。ありがとう」

 もう寝ると言わんばかりにごろりと体勢を変えて、奴に背を向ける。けれど彼が立ち上がる様子はなく、この際だから本当に寝てしまおうかと考えた。
 頼むから早く立ち去ってくれ。そう願ってやまないのに、奴はまた口を開く。

「……だって、そうでしょう?」
「……」
「私達、まだ付き合ってもいませんもの」
「そうだ、ね……?」

 自然に零された言葉を、うっかり、落としてしまうところだった。
 今、奴はなんて言った?
 私達、まだ付き合ってもいませんもの。
 ――『まだ』?

「……文」

 奴は立ち上がり、ふいにあたしの名前を呼ぶ。
 覗き込んできた鋭い瞳に、どうしよう、でも、どうしようもない――胸が高鳴った。



「私、あの頃より随分、背が伸びましたよ?」





 ――幼い頃、あたしより小さい男の子に、たんぽぽをプレゼントされたことがある。
 ぼくはふみちゃんがすきだから、と彼は言っていた。
 おおきくなったらけっこんして。
 その言葉は本当に嬉しかったのだけれど、あたしは素直じゃなかったから、少しだけ意地悪を言ったのだ。

『ひろくんが、ふみよりおっきくなったらね』

 そうしたらおよめさんになってあげるよ、と、馬鹿みたいな話をした。
 言われてようやく思い出した、小さな約束だった。

「……ええー……?」
「なに、嫌なんですか」
「ちょっと待って。そうじゃなくてえーと……ごめん、頭追い付かない」
「だったら尚更早く治してくださいよ。私だけ言い損じゃないですか」
「善処するわ……」

 あの頃より随分と大人びた顔立ちの中に、あの日のままの幼い表情があった。学校では絶対に見ることのできない、不満がある時の膨れ面。
 やっぱり人間って、そう簡単に変われないのかもしれない。そんなことを考えながら、いよいよ空気に耐え切れず顔ごと布団に潜りこむ。早く治すために寝るから帰れとせっつくと、妙にすっきりした顔で出ていきやがった。律義なんだか一途なんだか馬鹿なんだか分からない。
 そんな奴……比呂士が、あたしもなんだかんだ好きなんだろう。

 楽になったはずなのにまた目眩と呼吸が苦しいのは、熱のせいなんかじゃないと思った。










******
比呂ブンなフォロワー様へのお誕生日祝いでした。
とりあえず一学年九百人はありえないだろ、と何度も目を疑った。

2013.1.26.

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