人魚姫は泣いていた | ナノ
声が出なくなった。
風邪をひいたのでも、喉を痛めるようなことをしたわけでもない。あまりにも突然のことだった。仁王雅治という存在から声だけが消えてなくなった。
俺は戸惑ったが、別に困りはしなかった。元より自分は口数が多い方ではないし、言葉がなくてもテニスはできる。
万が一何かあっても、相方兼恋人は何も言わずとも理解してくれるよくできた男だ。よくできているがゆえに、俺のことを気遣いながらも「あなたの声が聞けなくて寂しいです」くらい言ってくれるかもしれない。どこまでも優しい奴だから、きっとこんな俺を放ってはおかないだろう。ずっと傍にいて、「早く治ると良いですね」なんて寂しそうに笑うんだ。そんな期待で心は躍る。
俺はこの状況を楽しんでさえいた。奴が俺を見捨てるなんて考えもしなかった。
声の出し方を忘れてしまったのだと柳生に伝えると、奴は妙な面持ちで「そうですか」と呟いた。
落ち込んでくれているのだと勝手に前向きに解釈した。しかし奴は、それきり何も言わなかった。隣、目の前、手の届くところ。柳生は傍にいる。けれどそれだけだ。普段からそこまでたくさん会話をするわけではなかったが、それでも柳生は幸せそうに微笑んでいてくれた。
柳生は俺の方を見ようとしない。
どうしたんだ、と声を掛けようとして、出ないことに気付く。
言葉がないと不便だ。初めてそれを知った。
無機質な時間が通り過ぎ、いつのまにか夕方になった。
のろのろと帰り支度をしていると、ガタンと大きな音を立て柳生が立ち上がり、そのまま俺を置いて帰ろうとする。俺は慌てて準備を済ませると柳生の後を追った。
必死に追いかけて、ようやく腕を掴んだ頃にはすっかり息が切れていた。
文句のひとつでも言ってやりたいのに、声だけが出ない。
その時、柳生が笑った。
俺の欲しかった表情ではない。とても哀しい、冷たい笑顔だった。
「……私ね、」
「……」
「あなたが声を失ったと聞いた時、少し安心してしまったんです」
「……、」
「もうあなたの嘘に振り回されて、理不尽に傷付くこともありません。そしてそれがこんなにも楽であるのだと、私は気付いてしまったんです」
ごめんなさい。
今まで有難うございました。
さようなら。
俺の手を優しく振り払いながら、柳生が何を言っているのか、俺には理解ができなかった。理解してしまってはいけないと思った。
なぜ、俺を置いてどこかに行こうとするのだ。
奴は振り返ってはくれない。俺は柳生の名前を叫んで、叫んで、それらすべては音にならないまま消えていった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
声が出なくなったから、俺が嘘吐きだから。
なあ、俺はお前をどれだけ傷付けた?
せめて、せめて一度くらい。
素直に、愛していると、言っておけばよかった。
――目覚めた時、外は暗く、俺は泣いていた。
ひどい悪夢を見た。あまりにもリアルで、恐ろしい夢だ。喉に手を当て、自分の声を確認しても俺は冷静になることができなかった。
手探りで枕元の携帯電話を探し、震える指先で電話帳を開く。
何度目かの呼び出し音の後、いちばん聞きたかった声が俺の全身に沁み込んだ。
『もしもし、仁王君ですか?』
「……おう」
『珍しいですね。どうしたんですか?』
「……」
『……仁王君?』
安心と喜びとそれ以外のなにかが混じり合って、ふいに左頬が濡れた。
俺の名を奏でるその声が愛おしくて仕方がない。
泣き出した俺に、柳生は大丈夫ですよと笑う。
夢じゃない、現実だ。ようやく俺の中に現実が戻ってきた。電話の向こう、俺の好きな柳生比呂士がそこにいた。
やっとの思いで落ち着きを取り戻した時、部屋の隅にある時計を見てぎょっとした。非常識な時間に電話を掛けてしまったことを詫びると、柳生はまた笑った。
『いいんです。あなたが真っ先に頼ったのが私であることが嬉しかったので、それで貸し借りはなしにしましょう』
途端、俺はものすごく恥ずかしくなって、どう誤魔化してやろうかと考え――しかしあの夢を思い出して、やめた。同じようなことが現実でも起こったら、いよいよ俺は死んでしまう気がする。
柳生の声をバックグラウンドミュージックにしながら、一度大きく深呼吸をする。
「や、ぎゅう」
『はい、何でしょう』
「ずっと、」
『はい』
「……ずっと、一緒におってな」
『……ええ、勿論』
あなたのような素直じゃなくて手のかかる人、私にしか相手できませんから。
囁かれた言葉に、愛されている幸せを噛み締めた。
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もっとブラックな話にしたかったはずが。
仁王君がただの恥ずかしがり屋になってしまったのが敗因。
2012.11.14.