溺れる魚はゆらゆらと | ナノ
※仁王が性同一性障害(MTF)
いとしい人と身体を重ね、愛を囁き合う夢を見た。
目が覚めた時まず浮かんだ感情は絶望だった。下腹部に気持ちの悪い感触。何度経験してもこの感じには慣れない、慣れなくて良いとも思う。
気だるい身体を起こし、嘔吐感を必死に抑えながら脱衣所へと向かう。下着を履き替え、汚れた方を洗面台に投げた。
無心でそれを見つめる。栓をひねる。ざー、という音と共に流れる、流れる、流されてゆく。
水と共に落ちていくなにかどろりとした白いものは、紛うことなく先程『俺』が零したもの。吐き気は酷くなるばかりで、割れてしまうのかと思う程の頭痛がした。
息が苦しい。
バルブを握り力強くひねると、まだ温まりきっていないお湯が蛇口から勢いよく放出される。生ぬるかったそれは次第に温度を上げ、遂には鏡面を真っ白に曇らせる。
動きの鈍かった白濁が湯気に隠されて視界から消えた時、ようやく自分の中に平常心が戻ってくるのを感じた。
男の身体というものは、どうしてこうも、浅ましい。
とめどなく溢れうごめき続けるお湯を頭から被り、きゅ、と流れを塞き止める。柔軟剤のよく効いた柔らかいタオルを髪の上に乗せ、鏡に映る自分を見た。
――ああ、昔から自分は、この顔が大嫌いだったのだ。
顔だけじゃない。背丈も身体付きも骨格も、何もかも。
今すぐ目の前の真実を映すそれを粉々に砕いて、そしてその破片で自分も引き裂いてしまいたい。そう思ったことが一体何度あったかなんて、もう――忘れた。
初めて自分の性別に違和感を覚えたのはいつのことだっただろう。
幼稚園に通う頃から既に自分が男であることに疑問は感じていた。どうして自分はここで泥まみれになって駆け回っているのだろうか。どうして男の子は女の子と一緒に飯事をしたり絵を描いて遊んではいけないのだろうか。
自分が女だと気付いたのはそれよりも少し後、確か小学校に上がってすぐの頃だ。
受け入れてくれる人などほぼ皆無といえた。他人が自分を遠ざけているのが雰囲気から伝わった。わたしはどんどん無口になった。
先程まで夢に見ていた彼の姿を思い出す。
むせかえりそうになるほどに彼の香りに包まれていた。わたしの耳元で愛していますと囁いた。無意識に涙を流してしまうわたしに何度も触れるだけのキスを落とした。その時ばかりは普段かけている眼鏡を外して、わたしだけを見ていた。優しい目を、していた。
心の中で彼の名を呼ぶ。
やぎゅう、ひろし。
その響きがとても耽美だと思った。恐れ多くて口にするなどできなかった。言葉にしてしまうとそのまま溶けてしまう気がした。
彼も、わたしの気持ちも。
――柳生。
あなたは気付いていないでしょう。あなたの知らないところで、あなたの知らない女が、あなたに恋をしているんですよ。
知らないといっても、彼と一度も話したことがないわけではないけれど。
普段のわたし、いや……『俺』は、『仁王雅治』として彼の傍にいることができているのだから。多分、同じ学校の中では自分がいちばん彼と親しい自信がある。
柳生。
あなたは知らないでしょう。ふわりと微笑みかけてくれたり、欠点を優しく諌めたりしてくれる度に、わたしは、泣きたくなるほどに幸せなんですよ。
それでいて、同じくらいにかなしいのです。
彼は『男』である自分に良くしてくれているのだということを、わたしは痛いほどに知っている。わたしと柳生は同じ学年で、テニス部の仲間で、ダブルスのパートナーで、親友で、それから――それだけ。
女の子としてあなたと向き合いたかった。
そうしたらあなたは、わたしにも紳士的に優しかったのだろうか。わたしに恋をする……なんてことも、あったのだろうか。
だけどそれは叶わない夢なのだろう。もしわたしが女だったなら、わたしはあなたと出逢うことなどなかったでしょう。
ならばいっそのこと、男性として生まれていたなら。そうすれば、こんなぎこちないものではなく、きちんとまっすぐな友情を育めたのでしょうか。
けれど、そうしたらわたしは柳生に恋をすることはなかったのでしょう?
悲しみが形を成して右目から零れ出す。
一筋の光が目の前の鏡に映されるのが堪えられなくて、タオルごともう一度水を被った。
このまま排水溝に流されて消えてしまえたらどれだけいいのだろうか、と考えながら。
――溺れる魚はゆらゆらと
底にただよい、何を想う――
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自分の中の葛藤と、悩みと、柳生への恋心に溺れる仁王。
2010.10.22.