奇跡の数字 | ナノ



 こんな夜中に電話が鳴った。
 ディスプレイにはよく知っている名前。“柳生比呂士”。テニス部における俺のパートナーからだった。
あの優等生がこんな時間に電話だって? 何か一大事でもあったのかと慌てて電話を取ると、奴は電話の向こうで『あ、まだ起きていたんですね』なんてのほほんと返しやがった。俺の心配を無駄にしやがって。
 しかし奴が俺を驚かせるのはそれだけではなかった。

「なんよ、どしたん」
『あの、今あなたの家の前に来ているんですけど』
「……ぁあっ!?」
『声が大きいですよ』
「すまん……じゃのうて」

 部屋の窓を開けると、本当に奴はそこにいた。その姿を見た瞬間、色々なことに脱力してしまい、焦ることもせずゆっくりと玄関まで下りた。
 俺の自宅から柳生の家まではそこまで離れていないが、だからといって決して近くもない。終電もとっくに過ぎたこの時間、奴はあまり使っている形跡のない自転車でわざわざここまで来たらしい。

「ふふ、今晩和」
「……どうしたん」
「いえね、今日は満月じゃないですか」

 そう言われて、街灯以外のほのかな光が辺りを照らしていることに気が付いた。空を見上げるとまんまるい月がぽっかりと浮かんでいる。澄んだ空だった。

「……ほんまじゃな」
「それでね、あまりにも素敵だったので、もっと美しく見えるところに行こうと自転車を漕ぎ進めるうち――」
「……気付いたら近くまで来てたからついでに寄った?」
「ええ」
「阿呆じゃろお前」

 柳生はにこにこしながら頷いたが、笑っている場合ではない。今日は親が家にいないので大丈夫ですよ、って、大丈夫じゃないだろ。
 奴に軽い放浪癖があるとは知らなかった。万が一、今後部活を無断欠席することがあったら、月の見える丘にでも行ったんじゃないかと言ってやろう。元より星座や神話の類が好きな柳生のことだ。幸村なら「ああ、そうなんだ」と軽く流すだろう。……考えただけで頭が痛い。
 イリュージョンや奇抜な作戦のせいで「仁王君って変わってるよね」と評価されがちだが、俺の思う限りコイツの方が俺より百倍変人だと思う。

「それでね、仁王君」
「まだなんぞあるんか」
「せっかくこんなに綺麗なんですから、もう少し明かりの少ないところに行ってみませんか?」
「……二人で?」
「ええ」
「断る」
「そう言わずに」

 そう言わずに、じゃないだろう。何が哀しくて自分と同じようなガタイをした男と肩を並べて月を見に行かなけらばならないのだ。どうせならそういう青春ごっこは可愛いカノジョとしたい。

「いいじゃないですか。どうせそんな女性もいないんでしょう?」
「……」

 あーもう、どうやってギャフンと言わせてやろうか、この似非紳士野郎。










 じゃあせめてお散歩だけでも、と柳生が言って引かないもので、仕方がなく俺が折れた。
 住宅街を抜け、少し離れただけで満月の明るさが一層よく分かった。夜中に家を出るには慣れていたが、こういう風に周りを観察するように見たことはない。隣に柳生がいて、奴に言われて初めて知ることだった。
 満月は本当に綺麗だった。

 ふと、柳生が足を止めた。

「……仁王君、ブルームーンって知っていますか」
「ブルームーン? ……姉貴の好きなカクテルの名前」
「残念ながらそっちではなくて。ひと月に二回満月があることをいいます」
「……ほう」
「今月がそのブルームーンなんです。一度目が今日、八月二日。二度目は三十一日になりますね」
「へえ」
「それなりに珍しいことなんですよ」

 柳生は笑っていた。先程のような、まるで嘘偽りのない笑顔だった。
 ――それなのに、何も変わっていないのに、寂しそうに見えるのはどうしてだろう。
 左胸がちくりと痛む。心臓が、ざわついている。





「あなたが生まれたのは何千万分の一の奇跡です。私とあなたが出逢ったのはもっともっと大きな奇跡。そんなあなたと珍しい月を眺めるのが、どれくらいすごいことなのかは分かりません。

 ですが、あなたが生まれてきてくれたから、こういう奇跡も起きるんです」





 ありがとう、と柳生は言った。
 人の幻影を追って、イリュージョンで誤魔化してばかりの“俺自身”に、柳生は言った。

 その瞬間、知りたくなかった感情を、自覚した。



「……柳生」

 入部当初から、奴のことが苦手だった。
 タイプが違うとか、そういう単純な問題ではない。真っ直ぐだったからだ。
 誰もが忘れている“仁王雅治”を、いつだって見つめ続けてくれたのが奴だった。嘘吐きな俺にとってそれほどの苦痛はなかった。
 そして、安堵も。
『奴だけは何があっても裏切らない』。そんなふうに、いつの間にか思ってしまった。

「どうしました?」

 “そんな相手に恋をするのは、どれくらいの奇跡だと思う?”

 奴だってきっと、俺に友情以上の何かを抱いてくれている。伊達にダブルスを組んで、長い時間を共に過ごしていない。それくらい分かる。
 けれど言ってしまったら、戻れない。

「――いや、何でもない」





 奇跡は起きる。俺はそれを知っている。
 それでも告げるのは怖かった。
 こんな奇跡だらけの状況で、これ以上可能性を求めるのは間違っている気がした。

 姉貴の好きなブルームーンには、「できない相談」という意味があるらしい。
 柳生がそれを知らなくても、その言葉が怖いから。





 踏み込むのはもう少し先にする。
 せめてあとひと月、ブルームーンが終わるまで。










******
カクテル、ブルームーンには『完全なる愛』という意味もある。
ということを、きっと仁王は知らない。

2012.8.2.

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