雨に埋もれる | ナノ
豪雨の中見覚えのある姿を見つけた。
それが“彼女”のものだと分かり、寒さに震える手を取って自宅まで連れ帰った。全身ずぶ濡れの“彼女”にバスタオルを渡し、ご実家に連絡しようと受話器に手を伸ばしたら遮られた。
「家出してきたけん、電話せんで」
「はあ……って、家出!?」
「ははは、ええリアクション」
「ふざけないでくださいよ」
私の反応が納得いくものだったらしく満足げに笑った“彼女”は、ようやく事情を話してくれた。家族と少し揉めたので頭を冷やすために家を出た、ほとぼりが冷めたら帰る、と。その答えに安堵したやら呆れたやらで脱力してしまった。
先日挨拶を済ませたばかりだというのに早速向こうのご家族様にご迷惑を掛けてしまうな、と意図せず溜め息が漏れた。だいじょーぶだいじょーぶ、バレんように帰るしやぎゅーさんの信頼落としそうなことは何も言わんよ、とか、そういうことではないのだ。
“彼女”は少し変わっている。
“彼女”は私に『不愉快にならない程度のギリギリの悪戯』を仕掛けるのが好きなのだ。
なんだかんだと絆されてしまう私も悪いが、そろそろ大学を卒業するのだから少し落ち着いてほしいと思う。これでは根がいい子なのに誤解されてしまう――なんて、一足も二足も早くすっかり身内気分だ。
このままでは“彼女”が風邪をひきかねないので、適当な着替えを見繕って新しいバスタオルと一緒に脱衣所に押し込んだ。
“彼女”が風呂から上がったら車でご実家まで送ろう、傘を持っていないようだから――などと考えつつ部屋に戻ろうとすると、シャツの裾を引っ張られる。何かあったのかと振り向くと、“彼女”は特に何を言うでもなく黙っているだけだった。訳が分からず首を傾げる。
次の言葉を聞いた時、“彼女”は果たして素なのか、それともまた新たに仕掛けてきているのかの判断に困った。
「やぎゅーさん、下着がない」
「……そうですね」
「貸して」
「えっ?」
「かーしーて」
「…………ありませんよそんなもの」
さすがに“彼女”が私のそれを貸せと言っている訳ではないことは分かったが、あまりにも突飛な発言に思わず苦笑いする。もしかしたら既に発熱し始めたのかと少し心配になり、彼女の額に触れる。
ひどく冷えていた。
一人で、あんなところに立ち尽くして何をしていたのだろうか。気にはなるが突っ込んで聞いていい雰囲気でもなく、聞く権利など私は持っていなかった。
どれだけ情があっても、私と“彼女”は結局他人なのかと思うと少し寂しい。
彼女は視線を逸らさない。
「……きの」
「え?」
「姉貴の、下着類とか、置いてないん?」
「ありますけど……あの、一般的なご家庭では、ご姉妹で下着の共用ってするものなんですか?」
しばらく黙っていると、堪え切れなかった“彼女”が笑いだした。
「嘘ウソ、ジョーダン。他の家は知らんけどうちではやらんよ。やぎゅーさんが姉貴と同じ価値観の人で安心した」
「はあ……」
目の前の“彼女”が涙を出すほど笑うので、なんだかこちらも毒気を抜かれてしまった。
いつだってこの子はこうなのだ。真剣な目で相手を見つめたまま嘘を吐き、へらへらと笑ってお茶を濁す。それがどうしてだか憎めない。得な性格をしていると思う。
私の大事なひとによく似ている。
ぼそりと、彼女が何かを呟いた。
え、と聞き返すと、何でもないから出ていけと仕切り代わりのカーテンを閉められる。
「“にいさん”のばーか」
部屋にはそんな言葉が残った。
とある雨の日の、もうすぐ妹になる“彼女”との話だ。
雨に埋もれる
――昔から、私と姉はよく似ていた。
目鼻立ちだけではない。価値観、考え方、少しいい加減な性格。何もかも同じだと言ってもいいくらいだ。
そんな中、私は“彼”と出逢った。
バイト先の喫茶店の客だった。
……一目惚れだった。
安い少女漫画でしかありえないことだと鼻で笑っていた私が、あっさりと落ちた。
特別会話を交わしたことはない。
三年もの間、ただただ“彼”を見つめ続けていた。
そんな“彼”を、「結婚したい人ができた」と姉貴が連れて来た時は、金属バットで思いきり殴られた気分だった。
なんでも去年運命的な出会いをしたらしい。
ふざけるな、と思った。
私の方がずっと前から“彼”のことを知っている。“彼”がコーヒーより紅茶派であること、コーヒーを頼むのはパソコンを目の前にうちで仕事をする時だけだったこと、機嫌のいい日はチーズケーキをオーダーすること。店の隅に申し訳程度に置いてある観葉植物の成長を、こっそり楽しみにしていること。
私しか知らないことだってたくさんある、はずなのだ。
私と姉はよく似ていた。何もかも同じだと言ってもいいくらいだ。
それなのに“彼”は、姉を選んだ。
いっそ、私のことを好きになってくれなくてもいいから結婚が破綻すればいいのにと思って、“彼”の住むアパートの近くで豪雨に打たれた。
私を部屋に入れた“彼”は、すっかり私の“兄”だった。
それがどうしようもなく辛かった。
もうなにもかもどうでもいいと思った。
私がこの部屋に来るのは初めてだった。けれど姉は何度もこの家の敷居を跨いだのだと、その事実を受け入れるのに時間がかかった。
世界でいちばん大好きな人を奪った、大嫌いな姉の下着を貸してくれと言ったのは、男女の営みを済ませた後、“彼”が履かせたものなら着てみたいと思ったからだ。
虚しくなるだけ? そんなの知っている。
それでも、間接的にでも“彼”が欲しかった。
本当はずっと言いたかった。
もし“彼”が姉と出逢う前に私が何か仕掛けていたら、せめて話し掛けていたら、結果は違っていたのだろうか。何度も何度もそう思った。
違っていたに決まっている、と思い込むことにした。
それでも尚、姉貴を選ばれたら耐えられないから。
「…………すき」
私の気持ちなんか、窓を閉めても響く雨の音に埋もれてしまえばいい。
え、と聞き返してくれる“彼”が、本当に本当に好きだから。
だからこそ、そんな言葉伝わらずにくたばってしまえ。
幸せそうな“彼”の笑顔が、私は何より好きなのだ。
「“にいさん”のばーか」
結婚、おめでとう。
私の大好きな大好きなあなたへ。
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ずっと見つめていたい彼の背中を、私は押した。
2012.7.8.