紅いネオンは干からびる | ナノ







※柳生がニューハーフ



















 別れましょう。
 そう切り出したのは柳生の方だった。俺はとても哀しかった。しかしそれでいて柳生の言葉にべつだん驚きもしなかった。どれだけ深く交わっても、生涯を共にすることは不可能であるのだとお互いが知っていた。そしてそれを知った時、彼は自分を突き放すのだろうとなんとなく思っていた。
 俺は彼の提案を受け入れた。嫌いになったのではない。愛していたから手を放した。
 ありがとう。そう彼が呟いた時、いよいよ二度と心を繋ぐことはないのだと思った。一人歩く夜道、隣に誰もいない事実は心に刺さるほど現実的だった。俺は静寂の中少しだけ泣いた。

 俺はそれでもしばらく彼のことを好いていた。初めて想いを通じ合わせた相手だった。簡単に忘れられるはずがない。けれどあの日々はどれだけ待てども戻っては来なかったし、戻るべきではないということにも俺は気付いていた。
 一線を越えてしまったものを何もかも捨て去ることにした。すべて捨てた先には、奥底から友情という絆が発掘されるに違いない。あの彼は、自分を、親友だと言った。考えただけで酷く滑稽だ。想像してみるとなかなか悪くない関係だった。いつか、そうそう、そんなこともあったねと笑える日が来る。
 俺は、過去に縋って生きるのをやめた。自分を取り巻く環境を、空気を、人を見るようになった。
 時が経ち、俺はかけがえのない人と出逢った。結婚して、子供も生まれた。父親という立場にも随分慣れた。俺が何にも代え難いと思っている幸せは、あの日の自分が退屈で仕方がないと嘆いた日常そのものだった。



 珍しく、与えられた仕事を定時までに全て片付けた。
 自分でも気持ちが悪いと思う程、俺は上機嫌だった。帰ったら何をしよう。まずはまだ小さい息子の相手を目一杯してやりたい。嫁の話を聞く限りでは、間もなく歩行が始まるかもしれないとのことだった。一歩下がったところから俺を支え、家事育児に励む嫁にも何かしらの恩返しがしたい。彼女の作った夕食を温かいうちに食べ、美味しかったと直接伝えよう。
 油断すると緩んでしまう口元を誤魔化しながら、帰り支度のスピードを上げた。
 と、そこで肩にとんと置かれたものがあった。嫌な予感がして振り返ると、どうやらそれは当たっているようだった。理不尽という言葉をそのまま人間にしたような上司が、俺の背後に立っていた。





 ――夜の街を歩くのは初めてではない。だが“それ”目的で歩いたことは短い人生で一度もなかった。
 帰宅しようとした俺を、この野郎は目敏く見つけた。気に入りの店があるから付き合えという。家庭持ちの俺に。今日ほど神を恨んだことはない。いっそ仕事なんてできなくてもいいから自分がこの人の上司になりたかった。
 時間は無情に流れていった。あの子が立ち上がり、俺が支え、彼女が笑っているところを想像すると胸が痛かった。

 姿を眩ます方法を考え込んでいるうちに、どうやら目的地に着いてしまったようだった。遂に後戻りが出来なくなった。身持ちを固めてからというもの、嘘を吐くのが絶望的に下手糞になった。俺はいよいよどうしていいか分からずその場に立ち尽くした。俯いていることだけがせめてもの抵抗だった。
 しばらくそこで待たされていると、奥からカツカツとヒールの音が近付いてきた。足首の辺りまである長いドレスが目の端に映る。その人工的な目映さに耐えられず、思わず顔を背けた。
 お久しぶりです、と奥からやってきた人間がクソ上司に挨拶をした。それは耳に懐かしく感じる優しいテノールだった。は、とする。そちらの方はお連れ様ですか。その声はぐわんぐわんと頭の中で響いた。俺はこの声を知っている。聞いたことがある。寝付きの悪い自分の為に贈られた、電話越しの子守唄と同じ声。
 まさか。

「――や、」

 思い切って顔を上げる。
 そこにいたのは、まさにかつて愛した男だった。










 すぐ近くの談笑が、ことごとく右から左へと駆け抜けていく。
 数ある風俗営業店の中でも『ニューハーフバー』に分類されるらしいそこに、自分の場所を見つける事など到底無理なことであった。始めこそ面白がって自分と同じような図体をしていながらドレスを着用した人間が近付いてきたが、俺があまりにも何も話さない為、間もなく距離を置かれたようだった。俺はずっと独り、宙に漂う空気を眺めていた。

 向かいに座る彼は、比呂華さんというらしい。見たところこの席の誰よりコミュニケーション力が高く、そして誰より美しい容貌をしていた。鋭い吊り目は薄桃色のアイシャドウで絶妙に緩和されており、微笑んだ顔は非常に淑やかだった。眼球が光っているのはコンタクトレンズの所為だろうか。
 その姿を見ているうち、腹部から込み上げるものがあった。やけくそに飲酒した訳でも、煙草と香水の匂いに酔った訳でもない。ただ気分が悪かった。胃袋がキリキリと痛んだ。眩暈がし、視界にある全てのものが歪んだ。吐きそうだ。どうしよう。気分が。悪い。
 口の中を支配する酸味を必死で飲み込む。すると、額に柔らかいものが触れた。

「大丈夫ですか? ……少し、外に出ましょうか」

 誰よりも美しいその人が、俺にハンカチを差し出した。





 店内でも程良く喧騒から離れた場所、俺はよく見知ったはずの知らない人間と二人でそこにいた。握らされたハンカチは汗を十分に吸ってすっかり滲んでいた。まだ少しだけ息が苦しかった。
 比呂華さんは、そんな俺を心配するように傍らに立っていた。背中を擦る手はとても温かいものだった。ハンカチを持つ掌が震えた。

「もう大丈夫」

 無理矢理出した掠れた声でそれだけ伝えた。彼はそうですかと言って少し距離を取ったところに居直った。身体中に酸素が巡るのを感じた。

「……なあ」

 何を話せば良いかなど分かるはずがなかった。ただ沈黙が嫌だった。あの頃あれだけ愛おしかった沈黙が、嫌だった。
 その時初めて、変わってしまったのだということを思い知った。目の前にいる彼は以前とはまるで別人だというのに、そして自分は人を欺くことが出来なくなったというのに、それでも気付くことはなかった。

「……お久し振りです、仁王君」

 その表情は、紛うことなき柳生比呂士のものだった。
 つっかえていた異物が押し流されたと同時に、形のない何かが心に残る。美しく細やかに施された化粧と、妙に広い肩幅のアンバランスさがひどく滑稽だった。
 ここの上客の誰よりも自分がいちばん知っている。その逞しい腕に抱かれたことがある。厚い胸板に包まれたことがある。あたたかい背中に寄り添ったことがある。彼はどうしようもなく男らしかった。
 だのに今はどうだ。
 彼はもはや彼女だった。
 初めて身体を重ね、混じり合わせた日のことを思い出した。何度記憶を遡っても、間違いなくあの日俺を組み敷いたのは彼であったし、涙を流し苦しく喘いだのは自分の方だった。関係を疑ったことはない。それがあるべき姿だと思っていた。痛みに堪えて受け入れた彼の雄の本能を、俺はよく知っていた。

「驚きました。まさかこんな所で会うなんて思っていなくて」
「……そうじゃな」
「……結婚式」
「……」
「出席できなくて、ごめんなさい」

 目の前の“彼女”は、寂しく俺に笑い掛けた。

「ねえ、写真とか、持っていらっしゃらないのですか?」
「写真?」
「ええ、お子さんの」

 子どもが生まれたことを、誰づてに聞いたのかは分からないが彼女は知っているようだった。
 わたしね、子どもが大好きなんです。ですから、実物でなくていいから、是非お目にかかりたいわ。そう、嘘偽りなどどこにもない様子で彼女は言った。
 俺は手帳に挟んだ息子の写真を彼女に差し出した。彼女はそれを食い入るように見つめていた。視線で穴が空くのではないかと思うほど真剣な様子で、一瞬たりとも目を離すことはなかった。かわいいですね、と彼女は渇いた声で呟いた。事務的なのか本心なのかさえ分からない、淡々とした言葉だった。
 その時、ほろりと零れたものがあった。彼女の頬の左側、一筋の光。たった今彼女が流したものだった。本当にかわいい。今まで見た子どもの中でいちばんです。言った声は震えていた。
 そうして彼女は顔を俯け、しばらく俺の方を見なかった。ぼそりと、小さな言葉が彼女から生まれた。独り言のはずであったそれは、うっかり俺の耳まで届いてしまった。嗚呼、まさにそれは――これ以上ない、“彼”の悲痛の叫びだった。

「いっそ産めたら良かったのに」



 あなたとの子どもが欲しかった。



 そう言って“彼”は、泣いていた。その涙を見て、心がふわりと浮かんだように軽くなるのを感じた。
 自分達は変わってしまったのだ。引き返すことは出来やしない。その事実が残酷なまでに俺に安堵を与えていた。
 俺は、変わってしまった“彼女”の肩を抱いて、綺麗に伸びた髪を撫で続けた。










 また会いに来ても構わないかと比呂華さんに問うと、彼女はわざわざ屈んで上目遣いを作り微笑んだ。

「駄目に決まっています。素敵な奥様と子どもさんがいらっしゃるのに、わたしからも愛をもらおうだなんて欲張りな人。そんな時間があるならそのぶん家族サービスなさるべきです」
「本当は今日もその予定だったんじゃけど」
「ふふ、そうですか」
「疑っとる?」
「いいえ。あなたの声は低くなってはいませんでしたから」

 ふと持ち上がった懐かしい話題に昔の“彼”を見た。
 今日はそのままお帰りなさいと言われ、俺は少し躊躇ったが、続いた彼女の言葉に少し笑ってご厚意に預かることにした。大丈夫、料金はすべて彼につけておきますから。あの人、お店では有数のお得意様だけれど上司としては気が利かないみたいですね。軽口を叩く“彼女”を見て、胸の中が苦くなる。灰色だ。どこまでも灰色の味がする。苦くて後味の悪いそれは、可笑しいほど自分達の末路に相応しかった。

 彼女に手を振り、現実世界への扉を開く。
 もう一度振り返ることは、けっして、なかった。





 “柳生”をああしてしまったのは間違いなく自分だという確信があった。
 俺はあの時、泣き喚いてでも彼を引き留めれば良かった? 彼の気が変わるまで情けなく彼にしがみつき続ければ良かったのだろうか。
 けれどそれが正しいとはどうも思えないのだ。
 ゆっくりではあったが、自分は彼の答えを受け止めた。それが間違った選択だったとは思わない。
 俺は俺なりに必死だった。
 だからこそ今があるのだ。


 柳生と二人で見た星座に、彼の幸せを願いたかった。
 しかし空を見上げたところで、このネオンの下、それでも静かに輝く星など見つけられるはずがない。
 それが無性に哀しくて、家に帰ったら真っ先に嫁を抱き締めて好きなだけ泣こうと思った。










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戻れない安心感。
『胸に灰色の味』 答え/ズボンドズボン

2012.5.9.

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