同じ夕焼け、空の下 | ナノ






※柳生が色弱















 昼休みの終わりを告げるチャイムが、学校中に響き渡った。
 なんとなく授業に出る気分にはなれず、屋上へと続く階段を上がる。重い扉を開けると、目の前には抜けるような青が広がっていた。今日も天気がいい。太陽の陽射しは目に痛すぎず優しい。吹き抜けた風がとても心地よかった。
 テニス部を引退してから、俺は気の向いた時間はここで過ごすようになった。一人の日もあれば、同じように気まぐれに立ち寄った仲間の誰かと過ごすこともある。俺みたいに授業をサボタージュしてまで来る奴なんてせいぜい仁王くらいのものだったが、ごくたまにレアな人間と鉢合わせる。そんな時は胸にむず痒さを感じながら、お互い少し微笑ったりしたものだった。
 仰向けに寝転がり、どこまでも続く青空を眺めていた。ちょうど頭上を飛行機が通り過ぎたところだった。じっと目で追い掛けても、あれが日本のどこかに向かうのか、それとも海を越えた先にある遠い国に行くのかは知りようがなかった。

 俺には、知らないことがたくさんある。





 綺麗な茶髪ですね。
 初めて顔を合わせて、挨拶を交わした日、アイツは俺にそう言った。当時から髪を赤くしていた俺は、当然奴の言葉に首を傾げることになった。
 最初はほんの少し、皮肉であることも疑った。目の前にいる奴は、生徒手帳に模範として載っていてもおかしくない優等生風の人間だったから。けれど奴の表情や声色から悪意のようなものは感じられなかった。冗談にしてはセンスが悪すぎるし(だってちっとも面白くなかったからだ)、だったとしたらそうとう度が合っていないか、もしくは曇っているんだろうか、あの眼鏡。
 どう返答していいか分からずしばらくの間黙っていると、そのうち奴の挙動がおかしくなりはじめた。何か、かなり焦っているような。先刻までの落ち着きはらった様子が夢か幻だったみたいに、目に見えて様子が違った。

「……あの、」

 必死に言葉を探すように、奴は視線を泳がせていた。

「間違えました。日の当たり具合でそう見えたみたいです」

 その日は、十人に聞いたら十人が迷わず曇りと答えるであろう天気だった。



 その日から、俺は奴と友達になった。思わず唖然としてしまうくらい嘘が下手なところに好感を持ったからだ。今までに出会ったことがないタイプの人間だった。奴の言うことはどんなことでも新鮮で、それでいて俺の心にするっと入り根強く残る、不思議な魅力を持っていた。俺達はすぐに打ち解けて、予想していた以上に仲良くなった。正反対だったからこそ、お互い刺激し合えたのかもしれない。いつまでも他人行儀なアイツの名前を、俺は慣れ慣れしく呼び捨てにしていた。その妙な距離感が気に入っていた。
 部内ではプレイスタイルが同じこともあり、よき相談相手だった。俺がスランプに陥った時は奴と打ち合い、奴が挫けそうになった時は俺が背中を蹴り飛ばした。本当にいい関係だったと思う。なんとなく、コイツとは一生つるむのかもしれないなとぼんやり考えたりした。

 奴との関係性が崩れたのは、出会って半年くらい経った頃のことだった。新人戦が終わり、少し肌寒い季節になった。途中まで帰路が同じだった俺等は、特別に約束したわけではないが、その日も肩を並べて歩いていた。他愛もない話を繰り返していると、ふわりと、奴の肩に落ちる何かを見つけた。手に取ってみるとそれは紅葉だった。俺が知らない間に、冷たい空気に触れたそれは鮮やかに染まっていた。毎日へとへとになるまでテニスに打ち込んでいたために、景色を見る機会が極端に減っていたことを、それを見て知った。
 もうこんな季節なんだな、と、何とはなしに呟いた。別に奴の返事を求めていたわけではない。本当に、何気なく放ったヒトリゴトだった。――だから、その場に呆然と立ち尽くす奴を見ても、俺は自分のしたことの重大さを理解することができなかったのだ。
 次の瞬間、奴はそれを俺から奪うように掠め取った。じっくりと観察するように目を細め、そして、どうしてだか最後に俺の頭のあたりに視線を寄越した。まるいくん、と淡々とした温度の感じられない声が俺の名を呼んだ。

「ねえ。――これは、何色ですか?」



 ――赤と緑の違いが分からないと奴は言った。自分は色を判別する力が生まれつき足りていないのだと。色覚異常という言葉を、俺はその日はじめて聞いた。
 帰宅してすぐ、普段は滅多に使うことのないパソコンを叩き起こした。慣れない手つきで『色覚異常』を検索すると、そこにあったものは俺の予想をはるかに超える光景だった。あまりにも色の少ない世界で、今まであいつは生きてきたのだ。
 一度だけ、奴に質問したことがある。不便ではないのかと。奴は笑って、「私は、生まれた時からこれだけの色しか知りませんから」と言った。ああ、本当に世界が違うのだ――。あなたとは生きる次元が違うのだ、と言い放たれたように思ってしまって、俺は途端に哀しくなった。そんなの嫌だと激しく思う自分がいた。これからもずっと、この優しさに触れていたいと思うのに。隣を歩いていたいと思うのに。
 ――馬鹿なことに、俺が自分の気持ちを知ったのはこの時だった。

「……ヒロシ」
「はい?」
「俺さ、お前の目になりたい」

 こうして“大切な友人”という関係を捨て、俺達は“恋人”になった。



 互いの気が向けば二人でどこへでも行った。同じものを見て、同じものを綺麗だと感じ、同じものを慈しむ。そんな小さなことが何にも代え難いくらい幸せだった。奴は変わらず俺に優しかった。時々こっそりお菓子をくれるところも、しょうもない話を真剣に楽しんで聞いてくれるところも前のままだった。ただひとつ、人目を盗んでこっそり交わすキスだけが以前と違っていた。
 比呂士はたびたび、あれは何色なんですかと俺に尋ねた。それだけ奴は色を知らなかった。俺は自分の知っているすべてを奴に教えた。比呂士が、たとえ理解したとしても一生知り得ないことは分かっていた。それでも俺は当初の言葉通り、奴に色を伝え続けた。
 冬が来て、春と夏が過ぎ去って、また紅葉の季節が来た。状況は変わらないはずなのに、比呂士は去年と同じ道を、去年とはまるきり違う面持ちで歩いていた。
 ねえ、丸井君。私はね、あなたが教えてくれるまで、コスモスが桃色なのを知らなかったんですよ。春には緑だった楓がこの季節になると紅に染まるというのも、あなたが教えてくれたから、私は知っているんです。私には感じることはできない。けれど、考えることはできます。あなたと同じものを見た時、あれは赤いのだな、あれは橙で、あれは紫なのだなと、ひとつひとつ思い出せるのは、私にとってこの上ない幸せなんです。

「――ありがとう」

 そう言って、比呂士は俺の髪を撫でた。





 俺には、知らないことがたくさんある。
 俺は奴を、色覚異常がどうたらとかいう理由で特別視したことはなかった。特別視だとしたらそれは、俺が奴を好いているがゆえの無意識の贔屓以外の何物でもないと思う。けれど、時折ふと考えることがあった。比呂士にはどう見えているのだろう。目の前に見えるものすべて、比呂士の世界ではどんな風に存在しているのだろう。俺は、どんな風にしてそこに在るのだろう。
 俺が知っていることを奴に教えるのは簡単だった。けれど色を知らない比呂士は、何を正しく何色だと呼ぶべきか判断がつかない。だから比呂士の見ているものを俺が知ることはできなかった。いちばん知りたいものを、俺は理解できないままだった。
 一度、二人で空を眺めた時、「青いですね」と比呂士が呟いたことがある。同じ色のものを共有することができるから、俺は晴れた日の青空が好きだった。だんだんと日が暮れて、空がオレンジ色になるたび、ずっと青いままでいいのになんて馬鹿みたいなことを本気で考えた。けれど腕時計の針を止めても、時間は変わらず逃げていく意地悪な野郎だった。

 空を眺めている間に、眠気を感じるようになった。別に俺は雲を目で追っていただけで、羊を数えていたわけではないのだが。確かに見た目は似ているけれど。
 そんなくだらないことを考えているうち、俺は意識を手放していた。目を開いても眠っても、浮かぶのは比呂士のことだけだった。





 ――額に何かくすぐったさを覚えて、目を開けるとそこには柔らかく微笑んだ比呂士の顔があった。いたいた、ごくたまに鉢合わせるレアな人間その一。

「気持ち良く眠っていたところすみません。五限からいなかったと仁王君に聞いたので、もしかしたらここではないかと思いまして。閉校時間が近いので、そろそろ帰りましょうか」

 陽はすっかり西に傾いて、俺の好きな青空はどこにもなかった。別にお前とだったら閉じ込められてもよかったのに。そう呟くと比呂士は、少し驚いた(ように見えた)あと、あなたは本当に可愛いですねとくすくす笑った。うっせ。たとえ好きな奴だろうが、俺だって男なんだから、可愛いって言われたところで嬉しくなんかねえんだよこの紳士。覚えとけ。
 そのまま額に唇を落とされて、妙にいたたまれない気持ちになった俺は奴の顔を右手で払った。衝撃でかたんと眼鏡が落ちる。普段隠されていて見えない瞳と目があった。俺のことを、見つめている。

「……いつ見ても、あなたの髪は綺麗ですね」
「あっそ」
「あなたの赤髪、私はとても好きですよ」
「……分かんねえくせに」
「分かりません。ですが分かるんです。あなたのことですから」

 奴はこういう歯が浮くというか、脳味噌が痒くなるような台詞を平然と言ってのける。それがまっすぐで純粋な言葉だから殊更扱いが難しい。嫌いではないが、勘弁してほしい。

「……比呂士。この夕焼けは、何色?」

 紅いですねと、あの日と同じように言ってくれたら、俺はこんなに捻くれないのになと思った。目になりたいと言ったり、そのくせ比呂士の見たものを知りたがったり、自分勝手な我侭ばかりだ。比呂士が素直であればあるほど、自分はどんどんねじくれていく気がした。

「……夕焼けは、オレンジ色でしょう?」
「お前にはどう見えてるかって話だよ」
「オレンジ色ですよ。あなたが教えてくれたその日から、私にとってこの色はオレンジなんです。夕焼けだけではありません。コスモスは桃色だし、秋の楓は赤い」

 馬鹿じゃないかと思った。俺が求めていた言葉はそんなんじゃない。どうしてお前は、いつも俺の予想斜め上なのだ。
 ――涙が出そうになった。

「あなたが言ったから、私はそれらの色に名前をつけたんです。私はあなたと同じものを見ている。あなただってそう。同じ夕焼けを見て、明日もきっと晴れるのだろうなと考えるんです」

 幸せなことだと思いませんか――と奴が笑った。


 俺と比呂士が見ている景色はきっと、並べて見てみるとまるで別世界なのだろうと思う。けれど比べようはないし、知ることだってできない。俺には知らないことがたくさんある。そして、奴にも。


「俺さ、お前の目になりたいって言ったじゃん」
「ええ」
「あれ、書き換え有効? 上書きしたいんだけど」
「参考までに、聞かせて頂けますか?」

「俺、今は、お前の“色”になりてえわ」



「……素敵ですね」



 願わくは、この夕焼け空が、比呂士と同じものでありますように。










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春コミ発行で地味に無料配布していたもの。冊子版には柳生視点も2ページ分ありました。
色弱ネタはずっと書きたかったのですが、思った以上にはまってくれたので安心。

2012.4.25.
(発行:2012.3.18.)

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