絵が繋ぐ、その感情の名は 前


「槙原ー、進んどる?」

外から第二美術室の窓枠に腕を乗せて、中にいる人物に声を掛ける。
中にいた人物、同じ学校の制服を着ている同級生の女子生徒。
この間ココで知り合った、普通の女子生徒だ。

「仁王君、部活サボり?」
「休憩中じゃ、心配いらんぜよ」

槙原は筆を置くと、両手を組んで伸びをする。
あー、なんていう声も聞こえた。

「進んでるのか進んでないのかわっかんなくなるんだよねー、コレ描いてるとさ」

彼女の手元にあるのは、青を基調とした色使いの絵。
まだ半分ほどは白いまま。

「美術部でもないのに夏休み中に学校来てまで描くとはご苦労じゃのう」
「でもこーでもしないと忘れそうだし」

彼女に以前聞いた話では、どうやら美術の授業で描いた絵を見た先生にコンクールに出品してみないかと持ちかけられたらしい。
コンクールに出せば、美術の成績を5にするという条件付で。

「成績に釣られた自分が嫌になってきた…」
「ま、頑張りんしゃい。応援はしちゃるきに」

応援と言っても、ただ練習の合間にこうして見にくるだけだけれど。
そう言うと、槙原はそれはドーモと言って苦笑。
普段は応援される側だけれど、たまにはいいかもしれない。






 ***






槙原沙耶という人間はよく分からない。
靴のラインの色で同学年ということだけは分かったけれど、クラスが何処かは知らない。
声をかけたときに、ただ名乗っただけ。
他に知っていることと言えば、美術部ではないことくらい。
とても脆い繋がりだ。槙原が作品を描き終えれば、きっと会うことはないだろう。
周りの女のように自己主張が激しいわけでもない。
俺や他のテニス部のファンというわけでもないらしい。
だから顔を見る機会なんて、そうありはしない。

「いつ、それ終わるんじゃ」

気がつけば、そう問い掛けていた。
俺の言葉に彼女は目を丸くして、それから首を傾げていた。

「提出期限が8月31日だから、それまでには終わらせなきゃいけないんだけどね」

今のペースじゃギリギリかも、なんて言って笑う。
それに俺はただふーん、とだけ。

「まあ描き終えたとしても後でしょんちに見せて、ちょっとした修正とかあるだろうけど」

しょんち、というのは美術の担当教師のあだ名だ。
親しみをこめてこう呼ぶ生徒が多いが、それで呼べばいつもちゃんと先生と呼べと注意を受けるらしい。

「大変やのー。完成したら、俺に見せてくれんか?」
「んー、じゃあ最初にお見せいたしましょう」

言って、小さく笑う。彼女の描いた完成作品を見たかった。
最初、という思いも寄らぬ単語に少し嬉しくなった。
そしてそこで生まれる矛盾に自分で気がついた。
作品が出来なければいいのに、という思い。
完成した作品が見たい、という思い。
なぜそんなことを思うのかはわからないけれど。



 ***



部活の休憩時間に入って、水道で顔を洗ったついでに頭に水も被る。
肩にかけたタオルで軽く顔についた水分を拭い取ってから、頭に被る。
はあ、と一つ息を吐いて視線をめぐらせて。
そこで誰かの声が聞こえた。
声のした方に視線を向ければ、第二美術室のあるほうだ。
首を傾げてそちらに目を凝らせば、誰かが手を振って大きな声で俺を呼んでいた。

「…、槙原?」

首を傾げながら美術室の方へと早足で向かえば、窓から身を乗り出した槙原がにこりと笑った。
窓の傍の机の上には、広げられた作品。
まさか、

「仁王君、出来た!」

笑って、完成したその作品を掲げる。
青をメインとしたグラデーションの背景。
夏の海でもテーマにしたのだろうか。
踊るように泳ぐ魚の絵が、モノトーンカラーで描かれていた。

「しょんちが声掛けるのもわかるのう。上手い」

俺が見ても、上手いというのがわかる。
思わず言えば、嬉しそうに笑う。

「今完成したばっか。今からしょんちに見せに行くんだけどね」

約束したでしょ、と言って。
数日前に交わした言葉を思い出す。
見せてくれと言った俺に、彼女は最初に見せると返したのだった。

「あー、これで美術の成績は安心だ」

へらりと笑う槙原の腕を、思わず掴んでいた。
窓枠ギリギリまで近寄れば、身長差に槙原が俺を見上げる。

「仁王君、水浴びたの?雫、冷たい」

見下ろす槙原の頬に、俺の髪から落ちた雫がぽたりと落ちた。
線を描いて雫が流れて、反対側の頬にまた雫が落ちる。
俺を見上げる槙原の目が細められた。
ちょうど逆光になっていて、俺の表情はあまり見えないのかもしれない。
頬に落ちた雫が描いた線を、親指でなぞる。

「…仁王、君?」

呼ばれて、瞬き。
今自分は何をしていたのだろう。何を、しようとしていたのだろう。

「……あの絵、俺好きじゃよ」
「ありがと」

とっさに出たのが、それだった。
間違ってはいない。綺麗な絵だと思うし、印象に残る絵だ。
槙原が描いたとなれば、尚更。

「じゃあ、今からしょんちに見せてくるね!部活頑張れー」

片手に完成した作品を持って、槙原が俺から離れる。
美術室から出て行くその背中を見送って、溜め息。
多分、もう槙原とこうして会うことはできないかもしれない。
そんなことを思いながら。




 ***




翌日、窓の外から覗いた美術室。
昨日までいたはずの槙原の姿は、なかった。
その次の日も。
俺は、それでも窓の外から美術室の中を覗き込む。
僅かな期待を持って。

「仁王、休憩ってなるとどっか消えるよなー。何処行ってんの?」
「秘密ナリ」

毎日のように姿を消していたら、流石に丸井も気になったらしい。
いつものようにガムを膨らませながら、聞いてきた。
けれど、聞かれたからと言って正直に答えるつもりはない。

「ケチくせー」
「うっさいぜよ」

しつこく聞いてくる丸井をラケットで遮りながら視線を向けた先は、第二美術室。
人影どころか、電気すら点いていないその教室に気分が沈む。
何で、こんなに気になるのだろうか。
それすら分からず、ただイライラが募るだけ。







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