06
「…新聞、何処じゃろ」
風呂上り、とりあえず茶の間に通されたので適当なところに座り込む。茶の間というからには基本的に家族はここで団欒するのであろう。ならばここに新聞があると考えるのが無難だ。
キョロキョロと周囲を見回して茶箪笥の横にこっそりと新聞の束が積んであるのを見つけて、一番上の新聞を取り上げる。
ばさりと広げて、まず視線を向けたのは新聞の一番上。記事の上に書かれた日付だ。
「……やっぱりか」
視線の先にある数字。西暦は、元々自分がいた時代よりも大分遡っている。今いるこの時代は自分がいた年よりも約30年前、ということになる。
ある程度予想はしていたものの、実際にそれを証明するものを目の前に突き付けられると改めてどうすべきかを考えてしまう。
想像していたよりも、衝撃は大きい。しかも自分が生まれるより遥か前。まだ親は成人すらしていない。今の自分と同じ高校生あたりだろう。
そこまで考えたところで、ふと思考を停止させる。
そんなことを考えている場合ではない。まず自分が一番考えるべきは、いつになれば元の時代に戻れるのかということだ。
衣食住は確保したから1週間は問題ないだろう。だが、それ以上となると再び最初の問題に戻ってしまうことになる。下手をうてば不審人物として警察に捕まる恐れもある。
この時代に自分はまだ存在すらしていないはずなのだ。身分証明するものもなにもありはしない。頼れるものは、自分以外に何一つないのだ。
「おーいニオーくん?どしたの、難しい顔して」
不意に声を掛けられて弾かれたように顔を上げれば、そこには濡れた髪をタオルで拭っている彼女の姿。不思議そうな顔をしている彼女に何でもないと返せば、そう?と大して気にした様子もなく返される。
改めて思うが、随分とさっぱりとした性格をしているものだ。まあその性格に助けられていることもあるし、その方が好ましくはある。
「何でもなか。ちょっと新聞見ちょっただけ」
「面白い記事あった?私テレビ欄しか見ないからさー」
あと4コマ!と能天気な笑顔。
新聞を覗き込むその顔にかかる髪から、水滴がぽたりと新聞の上に落ちる。視線を上げれば、彼女の髪先の新たな雫が今にも落ちそうだ。きちんと髪の水分を拭い取れていないのだろう。
ため息一つ零して、パジャマの裾をぴんと引く。
「お前さん、髪はちゃんと乾かしんしゃい。さっきから水滴落ちとうよ」
指摘してやれば彼女はん〜、と唸ってわしわしとタオルで髪の水気を拭っていく。それを横目で確認しながら新聞の記事に視線を落とすものの、時折飛んでくる小さな水滴がどうにも気になって新聞を読むどころではない。
ばさりと音を立てて新聞を畳んでから膝立ちで彼女の後ろに移動して、タオルを動かす彼女の腕を掴んで止める。
「ん?なんかした?」
「タオル貸しんしゃい。やっちゃる」
首を傾げながら見上げる彼女の頭にタオルを被せて、その上で手を動かして髪から水分を拭い取る。ある程度水気が拭えた事を、髪をひと房指先で掬って確認する。全く痛みの無い髪は柔らかく、水分を含んで艶やかだ。
先ほど自分が借りたドライヤーを再びコンセントプラグに差し込んでスイッチを入れれば吐き出される温風。それを彼女の後頭部に当てながら、髪に空気を含ませるようにゆるくかきまぜる。その動作をしばらく続けて髪全体が乾いた頃に彼女の顔を覗き込めば、気持ち良さそうに顔を緩ませたまま目を瞑っている。
「おーい、起きとる?」
「ん、んー…」
どうやら眠くて仕方ないらしい。人に髪を触られていると確かに眠くなってくる。その気持ちは分からないでもない。分からないでもない、が。今寝られては困るのだ。
スイッチを切ってコンセントを抜いたドライヤーにくるくるとコードを巻きつけてから、彼女の正面に回りこんで頬に手を添える。柔らかい頬だと、その肌に触れて思う。
うつらうつらと船を漕ぐ彼女の瞼は閉じられているものの、その下に隠れている瞳は明るい色をしていた。頬に影を落とすまつげは、長い。改めて見てみると、整った顔立ちをしている。
「起きんしゃい!」
むにっと彼女の頬を片手で掴めば、タコのように飛び出す唇。
いきなりの事に驚いたのか、今まで閉じられていたはずの目はぱっちりと開かれていた。
「は、はらして!」
「何て言っちょるかわからんのう」
何と言っているのか実は分かっているのだけれど、タコのような顔が面白いので分からないふりをしてそのまま頬を掴む手にじわりじわりと力を籠めていく。
「ひはい!ひはい!」
「はは、タコが居る」
必死に手を外しにかかる彼女を小さく笑いながら見下ろす。だが、そろそろ本当に痛そうなのでやめてやろうか。
彼女の手に逆らわず、ふと手から力を抜く。自分が掴んでいた頬は赤みを帯びて少し痛そうだ。…やりすぎたかもしれん。
「ニオーくん酷い痛かったよこれ!」
「すまんすまん。それよりホレ、髪乾かし終わったナリ」
一応謝ってから、乾かし終えた髪を指先で掬う。乾かした髪はどこも絡まることなくするりと指をすりぬける。
彼女はむすっとした顔で自分を見上げてから、髪に手を伸ばす。指どおりを確認した彼女の顔が途端に輝いて、そのあまりの違いに小さく笑いがこぼれた。
「おー、さらっさら。ありがとー」
へらりと笑って、再び自分を見上げる。随分と表情がころころと変わるヤツだ。
見ていて厭きないのは、赤也と一緒だ。あいつもころころと表情が変わって見ていて面白い。だからこそ悪戯を仕掛けてやりたくなるのだ。
「ちゅーか、俺はどこで寝ればえーんじゃ」
「あ、そーいやそーでした。こっちこっち」
彼女を起こしたのは他でもない。自分の寝る場所が何処だか把握していないからだ。
ざっと家の中を見せてもらったときにあった和室だろうとは思うが、何しろ寝具がどこにあるのかがよく分からん。勝手に探して出したっていいのだが、他人が勝手に家の中のものを出したりしていたら気分が悪いだろうと思ってとりあえず彼女に声をかけることにしたのだ。
立ち上がって案内されたさきは、やはりというか和室で。茶の間とは違い、小ざっぱりと片付けてあることから客間なのだろうと予測。戸袋脇の押入れを開けば、布団一式がそこには詰め込まれていた。
「お布団敷くからはい、どいてー」
言いながらばさばさと敷布団やらシーツやらを取り出していく。彼女が布団を敷いていくのを少しばかり手伝いながら、準備が整うのを待つ。
「はい、終了!んじゃお休みー」
布団を敷き終えるやいなや、ひらりと手を振って部屋を出て行く彼女を見送ってから布団の上に倒れこむ。
この家に来てから一度も開くことの無かった携帯電話を開いて時間を確認すれば、まだ10時にもなっていない。けれど何故か疲れていた。身体を布団に横たえた途端に襲ってきた睡魔に抗えず、瞼がどんどん重くなっていく。
急に時代を遡り、見知らぬ人間の世話になることになったのだ。疲れないわけが無い。
先ほどまではどうすればいいのだろうと考えていたはずなのに、今となってはもうどうだっていい。自分がどう抗ったところで自分の力ではどうにもならない事象なのだ。考えたところで無駄だろう。
眠さゆえにそんな投げやりな考えに至るものの、それは間違いではない。そうだ、考えたところで自分にはどうすることも出来ないのだ。
そこまで思ったところで、思考は緩やかな眠りの波に攫われていった。
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