03



「私もう帰るよ」

しゃがみ込んで猫の頭を撫で付けた彼女は、立ち上がるなりバイバイと言って自分に向かって手を振った。足元では猫がもっと撫でろと言わんばかりに彼女を見上げて鳴き声を上げている。
ふと空を見上げれば既に日は沈んでいるし、夕焼けの赤も夜の闇に大分侵食されてしまっていた。

「もう大分遅いけえ、送ってっちゃる」

そう言いながら立ち上がる。
街灯は既に明かりを灯し、時折公園の傍を走る車はライトをつけていたりいなかったりとまちまちだ。薄暗くなりつつあるこの時間帯は見えるようで見えない、危険な時間帯でもある。治安が悪いとも思えないが、変質者が出ないとも限らない。こうして知り合って言葉を交わした相手が襲われたとなれば気分も悪い。
まあそんなのは上辺の話であって、実際のところは彼女を逃さない手は無いと考えての事だ。もし出来るのであれば彼女の家に一泊するなり、それが出来ないのであればせめて食事だけでも出来ないだろうかという計算の元での発言だ。
このあたりは人通りが多いとは言えない。次の機会なんて今日のうちにはもうないと考えた方がいいだろう。

「それはどーも。じゃあお願いしようかな」
「おん」

断られなかったことに安心する。
断られたところでごり押ししてでも家まで送っていくつもりではあったが。スムーズに事が運ぶのであれば、その方がいいだろう。面倒なことは誰だってしたくはないものだろう。
にゃんぺいと名付けられた猫に手を振って、彼女の横を歩く。公園を出て、どこか見たことのある風景の中を進む。足を止めたのは、公園から10分ほど歩いた先にあった家の前。自分の家が後に建つであろう場所からさほど離れていないそこは、見覚えのある場所だった。
隣近所の家は後に建て替えられたり改装工事などが施され今とは違った景観であるが、この家は。ここだけはなぜか、自分が居る時代とさほど変わっていなかったのだ。黒い門扉に低い塀。塀の上には、門扉と同じ黒い柵。植えられた樹木もそのままだ。

「ここがお前さんの家か?」
「うん」

頷いた彼女が、黒い門扉に手をかけてこちらへと顔を向ける。
その瞬間を狙って、口を開いた。

「のう、俺ん事泊めてくれんか?」

別れの言葉を聞く前に、持ち掛ける。
ありがとう、ばいばい。
その言葉を聞いた後には中々頼みづらいものがある。彼女はといえば、驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。
追い討ちをかけるように、もう一度口を開く。

「親と喧嘩して家追い出されてしもうて。他に頼る親戚もおらんし友達連中には知られとうなかし。…っちゅーわけで、頼む」

半分嘘で、半分本当だった。親と喧嘩したというのは本当の事だ。だが、家を追い出されてなどはいないが。
頼みごとをするときは嘘と本当を混ぜた事情を話すようにしている。嘘ばかりではリアリティがないし、だからと言って本当の事ばかりを話したくもない。
ある程度の事実を織り交ぜた事情を話せば、それは丸っきりの嘘ではないがために信じてもらいやすい。
そんな事情を話してまで頼むようなことなどまずないが、今回ばかりは仕方ないだろう。

「親が居たらまず駄目って言われそうだけど、別にいーよー。ウチの両親、今北海道行ってて1週間位帰ってこないらしいから」

あっさりと頷かれて、少しばかりこちらが驚いた。が、それだけでは終わらなかった。彼女はニタリと何かを企むような笑みを浮かべたかと思えば、交換条件を出してきたのだ。

「泊めてあげるけど、代わりにご飯。作ってね」

男に対する危機感というものがないのだろうか、この女は。
少しばかり呆れる。が、今回ばかりはそれが幸いした。両親が不在というのもこちらとしては有り難いばかりだ。両親が居たらそれはそれで面倒だ。食事を作るという交換条件は出されたものの、それぐらいならばなんて事はない。別に料理が出来ないわけでもない。それくらいですんだ事に逆に感謝すべきだろう。
最低限の衣食住は確保できたのだ、これで飢え死にという最悪の事態は免れることが出来た。

「そんくらいならお安い御用ナリ」
「んじゃよろしくー。じゃあほら、上がって」

そう言って彼女は笑うと黒い門扉を押し開けて自分を招く。
玄関のドアを開けた彼女を追うように家に上がり込めば、どこか懐かしいような切ないような。そんな香りがして、何故か泣きたい様な気分にさせられた。



 ***



招き入れられた彼女の家の中はお世辞にも綺麗とは言い難かった。家の中自体は片付けてあるのだろうが、基本的に物が多いのだろう。どこか雑然とした印象を受ける。
それでも不快に思わないのは、この家自体の雰囲気のせいだろうか。懐かしいような暖かい空気が充満していて、それを深く吸い込めば心が満たされるような気すらするほどに。何故そう思うのかは全くもって分からなかったけれど。

「じゃあ早速お願いしようかなー。あ、ここ茶の間ね。荷物ここ置いていいから。台所はこっち」

指差された先には畳敷きの部屋。
自分の家には畳敷きの部屋なんて一室もないのでどこか珍しく感じる。真田や柳の家は畳敷きの部屋ばかりだったと思うが、彼らの家に行くことなんて年に数える程度のため、あまり馴染みは無かった。
茶の間といわれたその部屋の隅に荷物を置いて、彼女の後を追う。パタパタとスリッパの音をさせて向かった先には台所。

「食材はあるもの適当に使っていーよー。見れば分かるだろうけど、食器はそこの棚ね。鍋とかザルとかボールは下の引き出し。調味料とかはそこに立ってるし、そこにない調味料とか乾物は上の棚にあるから。あと分からなかったら声かけてねー」

指差しながら大雑把に説明をするなり彼女はひらひらと手を振って台所から姿を消す。
適当にとは言われたものの、いざ他人の家で料理をするとなるとどうしたものか少々困る。そもそも彼女の食べ物の好みだとか、味付けの濃い薄いだってあるだろう。勝手に冷蔵庫を開けることに躊躇いすら生まれる。
自分がそんなことを気にしたところで彼女はそんな自分の気持ちなど知ることなく普通に食事を摂りそうな気もするが。

「…気にしたってしゃーないし、のう」

そう独り言ちて、ワイシャツの袖を捲り上げる。ざっと手を洗い流してから冷蔵庫を開けて中身を確認する。冷蔵庫の中に豚肉を見つけて思いついた料理。献立を頭の中で立て、それに必要な材料を取り出してまな板を出したところで、背後から声を掛けられた。

「ニオーくん、これしてー」

後ろを振り向くと同時に自分に向かって投げつけられるそれ。自分の顔目掛けて投げられたそれを受け取ると、モスグリーンのエプロン。花柄ということに若干の抵抗を覚えるが、可愛らしいピンクなどの色でないだけマシだろう。ため息をついてそれを身につけながら、去ろうとする彼女を呼び止める。

「のう三門サン、豚肉あったけえしょうが焼きでええか?」
「おーいーですねーしょうが焼き。最近食べてないし、賛成ー」
いえーい、と両手を挙げて嬉しそうに笑う。屈託の無い笑顔につられるように、こちらも思わず笑ってしまう。
どうにも彼女といると自分らしさが保てないような気がする。友人やクラスメイトと接しているときの自分ではない。どちらかといえば、自宅に居るときの素の自分に近い。今日会ったばかりだというのに、何故だろうか。

「そうじゃ。三門サン嫌いな食いモンとかあるんか?」
「へ?んーん、特にないよ。だからニオーくんが好きなの作っていーよ」

よろしくーと言って、再び姿を消す。その背を見送ってから小ぶりな鍋とピーラーをを取り出す。鍋はまな板の近くに置いて、先ほど準備したジャガイモを軽く水で流してからピーラーで皮を剥く。皮を剥き終えたジャガイモを適当な大きさに切りながら思う。一時はどうなることかと思ったが、とりあえずは何とかなりそうだ。偶然知り合った三門紗江という女も変に媚びたりすることはなく、逆にさばさばとした性格で話をするのが楽でいい。何より彼女と一緒に居て落ち着ける。自分の時代では一緒に居て落ち着けるような人間など稀だというのに、今自分がいるここではこうも容易く見つかるものかと苦笑する。どうにも不思議なのは、彼女に対する既視感だ。彼女と会ったことはないはずなのに、どうにも何処かで会ったことがあるような。そんな気がしてならなかった。





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