12
自分が1歳かそこらの頃に、母親を亡くした。元々身体の弱い人だったらしいから、仕方のないことらしい。身体が弱かったというのに子供を3人も産めたのは奇跡にも近いと、そんな話を親戚が話しているのを聞いた事がある。
母親が亡くなってからは、父親の実家へ行って父親の両親に子育てを手伝ってもらってたんだと。お陰で特になんの問題もなく過ごしてきた。
とは言っても何故母親がいないのか、その関係で多少喧嘩をしたり悩んだりもしたが。
自分が小学校を卒業する頃、子育ても少しは落ち着いたからと元々住んでいた神奈川に戻って。
それからだ。父親が時折帰りが遅くなるようになったのは。
以前は仕事が大変で残業でもしているのだろうと思っていたのだけれど、そうではないと気付いたのは中学2年の半ば。仕事して帰ってくるにしてはやけに上機嫌な事が多かった。本当に残業をしてくる日もあったのだろう、げっそりした様子で帰ってくることもあった。
だが、そんなことがあったからこそ上機嫌な日との差がハッキリと分かった。本人は顔に出さないよう気をつけていたつもりだろうが、元々の性格だろう、人の感情の動きには敏い方だった自分には丸分かり。
中学三年になったある日、なんとなく聞いてみたのだ。
帰りが遅い日は何かがあるのだろうと。それが何かは分かっていたが、あえて問うてみた。そしたら少し驚いたような表情の後に、顔を綻ばせて言ったのだ。『大切に思える人ができた』のだと。
やはり、と。そう思った。母親が亡くなってからというもの、親の手助けを受けていたとはいえ男手ひとつで自分達を育ててきたのだから当然のことかもしれない。
だが、抵抗があった。自分には母親の記憶は殆どないが、心の中には母親の居るべき場所がぽかりと口を開けていた。そこに血の繋がりも何もない他人が母親として入り込むのは嫌だと。漠然と、そう思ったのだ。
その時は再婚の話はちらりとも出なかった。だからその時は特に何を言うでもなく、そこで話は終わった。
そして、高校2年になって直ぐの頃。会わせたい人が居ると、父親が真面目な顔をして自分達に言ったのだ。
それを聞いて、すぐに分かった。父親は『大切な人』と再婚したいのだと。その話を切り出すつもりなのだろうと。姉も予想していたのだろう、神妙な顔をして頷いていた。
ただ1人、弟だけがワケが分からないと言った様子で目をぱちくりとさせていた。
その人と会ったのは、それから数日後。父親より5歳ほど年下らしいその人は、綺麗な顔をしていた。初対面の自分達に、ぎこちなく笑いかけてきた。
全くの他人として接するのであれば、なんら問題はなかっただろう。だが今回はそうではない。自分達の母親になるのだ。義理とはいえど、母親としてその人を受け入れるのは難しかった。
悪い人ではないのだろう。ただ、自分達に接する態度が嫌だった。どこかおどおどとしていて、顔色を伺うようで。初めて会ったからというだけではないらしい。その後数回会ったし、食事も一緒に摂った。けれどその態度は相変わらず。
その人が来た日は、家の中がどうにもギクシャクしているようでそれが嫌だった。弟はそんな事はあまり感じて居ないようだったけれど、少なくとも姉は感じていたことだろう。仕事を理由に引っ越していったのは、それからまもなくのことだった。
「それが原因で、喧嘩したの?」
「あの人が来た日は家ん中がギクシャクしとるん気付かんのか、っちゅーてな。再婚に反対したんじゃ」
反対したらそれが元で喧嘩になった。流石にいい年の大人ということもあって、殴り合いなんてことにはならなかったが。まあ殴り合いになったとしても自分が勝つだろうが。
それからと言うもの、家の中はあの人が来ない日でもギクシャクし始めた。当然だろう。自分と父親が口もききやしないのだから。
弟も流石にこれには気付いたらしい。何で喧嘩なんてしたんだと詰め寄ってきたくらいだ。
「…うーん、難しいね。悪い人ではないけど、その人が来るとギクシャクしちゃうかあ」
空になったマグカップを手に、彼女がぽつりと零す。
自分も大分冷めてしまったホットミルクをあおって空にする。
きっと、悪い人ではない。そう思うのだけれど、あの人が来た日は家の空気が違うのだ。腫れ物に触れるような、自分達を恐れるような態度ばかり。
自分達に向ける笑顔だって作った笑顔なのだ。作った笑顔を向けてくる人とどうして仲良くなれようか。歩み寄る気も失せた。
「…………じゃあ、さ」
暫くの沈黙の後。考え込むように口元に手を当てていた彼女が呟く。
視線はどこか一点を見つめたまま動かない。そんな彼女の次の言葉を待つ。
「まず、お母さんの事を知っていけばいいんじゃないのかな」
「…は、」
思わず声が零れた。考えても見なかった言葉が続いたからだ。
まずはその人と仲良くなれとか、そういった内容の言葉が続くものだと思っていたから。
何故彼女はそう思ったのだろうか。彼女はまだ考え込むように口元に手を覆ったまま、どこか一点を見つめている。
「本当ならお母さんが居るべき場所に、違う人が入り込もうとしているから嫌なんでしょ?なら、まずそこをお母さんの事で少しでも埋めちゃえばいいんじゃないのかな」
そうすればその人に対する嫌悪感のようなものは薄らぐような気がするなあ。
そこまで言って、彼女がふと視線をこちらに向ける。ぱちりと視線がぶつかった途端、はっと目を見開いて慌て出す。
「…ってああああゴメンあんまり気にしないで!あくまで私の想像であって!本当にそうかはわからないし、っていうか偉そうな事言ってゴメン!!」
「………いや、」
寧ろ、彼女の意見を聞けて良かったと思うくらいだ。
そう、か。母親の事を全然知らないせいで、あの人を受け付けられないのだろうか。
ならば、母親の事を知ってみるのもいいかもしれない。手段の一つではあるだろう。
この問題の解決に繋がらなくても、自分のためにはなるだろう。今まで母親の事を全く知らなかったのが、逆におかしかったのかもしれない。知ろうとするのは、きっと普通の事だろうに。
「あ、余計な事を言うかもだけど。その後お父さんとその人ともちゃんと話をするべきだと思うなー」
それは、そうだろう。自分でもそれは思っていたことだ。ただ、実行に移すには抵抗があった。まだ喧嘩の真っ最中だし。それにあの人とは、必要最低限の会話しかしないのだ。腹を割って話しをするにはまだ時間がかかるだろう。
「……そう、じゃな。少し落ち着いたら、話してみるかのう」
空になったマグカップをことんという小さな音をさせて座卓に載せる。胡坐をかいた膝に頬杖をついて、ぼんやりと思考を巡らせる。
彼女は、不思議だ。自分の事を話すのは好きではないのだけれど、何故か彼女にはこうして話してしまっている。そして自分にくれた言葉は、自分の心を軽くするのだ。
だがしかし。
「ちゅーか俺ン事ばっか喋っちょるのも不公平じゃのう。紗江ちゃんもホレ、話さんか」
ニタリと顔に笑みを浮かべる。
視線を向けた先では、彼女が驚いたように目を見開いている。自分に振られるとは思わなかったのだろう。
それからは彼女が自分の事をぽつりぽつりと語りだす。なんて事はない、平凡とも言える彼女の家族や生活。
普通すぎてつまらないでしょと彼女は笑うけれど、彼女は気付いているのだろうか。普通が一番幸せなのだと言うことに。可もなく不可もない。そんな生活がどれだけ幸せか。それを手にしている人ほど、その幸せに気付いていないのだ。
自分にとっては、どう頑張ったところで手に入れる事の出来ない幸せ。
気付かぬうちに幸せを手にしている彼女が、心底羨ましいと。そう思いながら、彼女の話を聞いた。
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