09



……暇だ。
朝飯を食って片付けを終えたら、あとはもう何もすることなんてない。学校で出た課題をやってもいいが、生憎そんな気分でもない。
何気なくつけたテレビでは古臭いドラマの再放送。10分くらい見たところで下らなくなってテレビも消してしまった。
もう一度言うが、暇だ。

「…紗江ちゃんに本でも借りるかのう…」

彼女を起こしに部屋に入った際に本棚があるのは確認した。本もそこそこ置いてあったような気はする。どんなタイトルの本かは分からないが。この時代だ、元の時代にあふれているライトノベルといった類の本はないだろう。
廊下に出て彼女の部屋に向かう。ドアをノックすれば、中からは確かに返事が聞こえた。

「お邪魔するぜよ」

中に入ると、彼女は机に向かって何かをしていた。学校の課題だろうか。指先でペンをクルクルと回している。

「紗江ちゃん、小説とか借りてもええかのう。暇でしゃーない」
「あー、うん。いーよ、好きなの持ってって」

その言葉に甘えて、遠慮なく本棚に並べられら小説のタイトルを見させてもらう。本棚に並んでいるのはわりと有名なタイトルが多い。太宰治やら夏目漱石、ゲーテやヘッセのタイトルもちらほら。意外と読書家か。人は見かけによらないってやつだろう。本人には失礼かもしれないが、本を読んでいるようには見えなかったのだけれど。
どれを借りようか、本棚に並んだタイトルを指先でなぞっていたら背後から聞こえた唸り声。

「…どーしたん」
「わっかんないんだよ〜〜〜〜〜」

唸る彼女の背後から、その手元にあるものを覗き込む。そこにあったのは数学の教科書と、何度も書き直したのであろう痕跡の残るノート。消しゴムの滓が散らばっている。
一体何度ノートに消しゴムをかけたのだろうか、表面が毛羽立って次に消しゴムをかけたらきっと破れてしまうだろう。

「なんじゃ、簡単な問題じゃのう」

机の上のペン立てから勝手にシャーペンを1本拝借して、教科書の余白に解を書き連ねていく。ノートに書いたら集めたときとかに筆跡が違うのが分かってしまうだろう。

「基本はほれ、そこにある公式じゃ。まずはこの公式に数字当てはめてみんしゃい」

ペン先でノートをこつこつと突く。大人しく頷いて、彼女の持つペンがノートの上を滑った。ノートの上に書き連ねられていく文字は変な癖などもなく、整った形をしていて読みやすい。
その字を見ていて気付く。既に間違っている。この時点から間違っていたらいつになっても正解は導かれないままだ。

「何でそうなるんじゃ…。俺のと見比べてみんしゃい。既に違うナリ」
「ん?あ、ホントだ」

間違った部分を、消しゴムで擦る。教科書の問題と公式を見比べながら、今度は正しい数字を書き連ねる。イコールを書いた後に、指先ではペンがクルクルと回転を始めた。ペン回しは行き詰ったときの癖なのだろうか。何も後は行き詰ることもないだろう。ただ計算するだけだ。

「んー…」

カリカリ。唸り声の後にペンが再びノートの上を滑り出す。
その後は順調に計算が進んだらしい。ペンが止まることなく、指先でクルクルと回ることも無い。
ピタリとペンが止まったかと思えば、どうやら問題が解けたらしい、見上げてきたかと思えばへらりと笑う。

「解けた!これでいーの?」
「…おん、正解じゃ」

よく笑う女だ。ふとそんなことを思った。
裏も表もない。全て素の自分を曝け出しているのだろうか。
きっとそうなのだろう。会ったばかりの自分にすら『こう』なのだ。普通であれば多少警戒するなりして素の自分は見せないだろうに。
少なくとも、自分には無理だ。今更素なんて見せられるわけが無い。
それが、何故かここでは出来ていないような気がする。彼女のせいなのだろうか。彼女につられて、なんてことがあるだろうか。わからないけれど。そんな気がするのだ。

「ニオーくんて数学得意なんだね、うらやましー」

私数学苦手だから毎回赤点ギリギリなんだよね。そう言って苦笑い。
分からなかったら聞くから教えて!そう言って笑う彼女にため息一つ。本を片手に背を向けて、ドアノブに空いた片手をかける。

「頑張りんしゃい」
「え、行っちゃうの?酷いなあ」

どうにも調子が狂って仕方が無かった。
まるでここは、ぬるま湯のようだ。居心地が良すぎる。居心地が良すぎて、ふやけてしまいそうだ。居心地が良いと思う一方で、それが怖いとも思う。今までの自分が崩されてしまいそうで。
彼女の傍に居過ぎてはいけない。
頭の片隅で、そんな警鐘が鳴ったような気がした。



 ***



ここにいると余計なことばかりを考えてしまう。
何故今頃になって、母親の事を考えるようになったというのだろうか。考えたところで自分は母親についての事なんて何一つ知らないというのに。そもそも母親の名前すらろくに覚えていないのだ。

「母親、か」

幼い頃は優しい人だったのだろうと想像もしてみた。それが、今となってはどうだ。母親なんてものは自分の中でただの偶像でしかない。
彼女の部屋から借りてきた本をぱらぱらと捲れば、登場人物の中には当然のように母親の姿が描かれている。
目を閉じて、幼い頃の記憶を引き出してみる。幼い頃の記憶なんて殆ど覚えていない。一番古い記憶はどれだろうか。思い出せるだけの事を思い出してみる。
神奈川に来る前。父親の実家にいた頃。優しかった祖父母の姿。仲の良かった近所の子供。それよりも前に、自分は誰かとの別れを経験したことがあるような気がする。泣きじゃくる幼い姉の姿が脳裏に蘇る。

「ニオーくん?」
「っ、」

急に声を掛けられて、肩が震えた。
伏せていた顔を上げれば、不思議そうな顔をした彼女の姿。それが誰かの姿に重なる。
……彼女と重なったのは、誰の姿だろうか。彼女の姿に別の誰かの姿が重なるのはこれで二度目だ。どうしたというのだろうか。夢か幻覚か、それでなければ、

「寝てた?もうお昼なんだけど…」
「…もう、そんな時間け」

彼女を見上げながら、ぽつりと言葉を返す。
きっと今の自分の顔は動揺を隠しきれていないのだろう。ばくばくと心臓がやけに早く脈打っている。
先ほど彼女に重なった姿。それは、もしかして。…もしかして、自分の記憶の奥底にある母親の姿、なのだろうか。
…ありえない。とっさにそれを否定する。否定する、が。本当は否定しきれないことを知っている。自分は母親の情報をほとんど持っていないのだ。その姿が母親のものか断定する術は一つだってないのだ。

「ニオーくん、具合悪い?大丈夫?」
「…大丈夫じゃ、考え事しちょっただけ」

どうやら彼女の目には俺が具合が悪いように見えたらしい。
そんな彼女に平気な顔をしてみせてから立ち上がる。すたすたと台所に向かいながら、昼飯は何にしようか頭で考える。朝はあまり食欲がわかないこともあって、今朝炊いた飯がまだ残っていたはずだ。それを使ってチャーハンでも作ればいいだろう。これもそこまで難しい料理ではないから、彼女に教えるにはちょうどいい。

「紗江ちゃん、昼飯チャーハンでええ?」

くるりと後ろを振り向いて問えば、虚を付かれたような顔をして視線を返してきた。それからくしゃりと不器用な笑顔で一つ頷く。

「ブッサイクな笑顔じゃのう」

苦笑しながら手を伸ばして、彼女の鼻に指先を押し当てた。指を押し当てたせいで豚のようになった鼻が可笑しくて、くつりと喉で小さく笑う。彼女は目を丸くしてこちらを見上げていたけれど、笑われたことに気付くなり鼻に押し当てた手を振り払った。

「なにすんのー?!」
「紗江ちゃんはからかったかいがあるのう。おもろい」

ニヤリと笑いながら再び台所へと足を進めれば、後ろからはぎゃあぎゃあと喚く彼女の声。
彼女はこうして騒いだりバカのように笑っているほうが似合っている。さっきのような笑顔は彼女には似合わない。
でも、そんな笑顔をさせてしまったのはきっと自分。自分を気遣った上での笑顔なのだろう。彼女は、優しい人だ。彼女とは会ったばかりだというのに、彼女はどうしてそんなにも自分に優しくするのだろうか。ふと疑問が脳裏を掠めた。





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