28
顔を上げて、びっくりした。
目の前に、図書館の本を片手に立っている幸村君の姿。
「あれ、びっくりした?」
「ごめん、ちょっと本に集中してて…」
苦笑しながら本を受け取ると、幸村君が小さく笑う。
貸し出し処理をしながら視線を向ければ、幸村君と視線がぶつかる。
「邪魔するのも悪いかなって思ってね。驚かせたなら、逆に悪かったかな?」
困ったように眉根を下げるものだから、慌てて手を横に振って否定しておく。
幸村君にそんな表情をされると、なんだかとても悪いことをしたような気分になる。
事実気付かなかった私が悪いわけだから、何も言い返せない。
「はい、これ。一応期限は1週間って事になってるけど、リクエストかかるまでだったら延滞しても大丈夫だから」
「そう?なら助かるな」
本を手渡してから気がついた。
「本読む時間、とれそうなの?」
幸村君に、私の本を貸していたのだった。
別に早く返せと催促するわけではない。
本を読む時間が中々とれないと言っていた彼が本を借りるのが珍しいと思ったのだ。
私が貸した本が返ってこないということは、まだ読み終えていないのだろう。
それなのに、何故別な本を?
「うん、何とかね。ああ、永塚さんに借りてる本はじっくり時間をかけて読もうかと思ってたんだ。…いいよね?」
確かめるように聞かれて、頷く。いいよ、という言葉も添えて。
詩集は急いで読むようなものでもない。
じっくりと詩の中にある単語の響きを楽しむものだと思っているから、逆に幸村君のような読み方が正解のように思う。
「そういえばその作家さん、私の貸した本と同じ」
「ああ、うん。どんな作品を書くのか、ちょっと興味があって」
言って、パラパラとページを捲る。
それを何気なく見ながらぼんやりと絵になるなあ、なんてことを考えた。
幸村君の横顔が、夕焼けでオレンジ色に縁取られる。
「永塚さん」
「うん?」
カウンターに伏せた、持参の小説にブックマーカーを挟めると同時に掛けられた声。
視線を幸村君に向けると、その指先がどこかを指し示す。
白い指先を視線で追えば、壁に掛けられた時計。
ああもうこんな時間か、なんて事を思ったところで。
「もう、閉館時間だよ」
幸村君に言われるまで、気付かなかった。
***
「永塚さんて、よく空見上げてるよね」
隣を歩く幸村君から、そんな言葉。
言われてみれば確かにそうかもしれない。
気付けばよく空を見上げている。
「何を見てるの?」
「んー…何を、ってわけじゃないけど。ただ、空を見てた」
空を見るのは好きだ。
毎日違う表情、毎日違う色。
雲の形は時間を追うごとに刻々と姿を変えていく。
瞬く星を見上げて、あの星はなんと言うのだろうと思い出そうとしてみたり。
「ていうか私、雅治と同じような事言ってる…」
今日と同じように、図書委員の当番で遅くなったときのことを思い出す。
一人きりの教室の窓から、空をぼんやり見上げてそう言っていた。
私の視線は相変わらず空に向けたままだったから、幸村君の表情がどんなものなのかは見えなかった。
「…幼馴染だと考えることとか、そういうことも似るのかな?」
「どう、だろうね」
言葉に詰まるような幸村君の返事。
ぱっと幸村君に視線を向ければ、ちょっと眉を寄せていた。
「あ、ごめん。そんなこと分かんないよねえ」
へらりと笑って、また空に視線を投げる。
分からないからそんな顔をしたのかと。そう思ったのだ。
幸村君の表情の理由なんて、私にはわかる訳もなかった。
「空ばかり見てると危ないよ?」
「大丈夫だよ」
外を歩いていても、空が見えるような開けた場所に差し掛かれば空を見上げているのだ。
今更転ぶような馬鹿でもない。
慣れた道だから、尚更。
「俺が心配なんだよ」
苦笑するような声色で言われて、幸村君に視線を向ける。
そんなに私は危なっかしいだろうか。
ぶらぶらとしていた左手を、ひょいと攫われる。
私の手を包む温もりに、少しだけ驚いた。
「こうすれば、転んでも大丈夫だろ?」
「…ありがと」
慣れない手の温もりに、小さく笑う。
そういえば、人の手とはこんなにも温かいのだった。
私に残るのはひやりとした手の記憶だけだったから、本来人にあるべき温度というものを忘れてしまっていたのかもしれない。
そしてそれは、私の手にはあの低い体温が馴染んでしまっているという事実。
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