09
「ただいま」
「だいまー」
家の玄関を入るときに、手を繋いだ小さな弟も私の真似をして声を上げる。
手に持った荷物をキッチンに置いて、弟と一緒に洗面所に向かう。
「ほら、ちゃんと手洗ってー」
「あわあわぶくぶくー」
泡だらけの手で遊びだしそうなのを何とか止めて水で泡を洗い流してうがいさせて。
小さな手を引いて部屋に入って、可愛い服を手渡して着替えさせて。
自分も部屋着に着替えて、玩具を抱えた弟がリビングに行ったのを確認してから洗濯機を回す。
取り込んだ洗濯物をリビングで畳みながらぼんやり見上げたカレンダー。
「…あ、」
日曜日につけられた赤丸。
もう、そんなに経ってしまったのか。
***
人気の少ない廊下を少し早足で教室に向かう。
自分としたことが、ケータイを机に忘れるとは。
誰もいないだろう教室の扉をあけて中に入って、止まった。
いた。1人だけ、机に伏せてる。規則正しい呼吸が微かに聞こえるところを見ると、寝ているらしい。
まずケータイを、と気持ち足音を忍ばせて自分の机からケータイを取り出して。
用は済んだとばかりに教室を出ようとして、また足が止まった。
目に付いた、思いも寄らない顔。
「…泣いてるんか」
北河の寝顔が、涙で濡れてて。それを見たら、何故か放っておけなくて。
前の席の椅子に座って、眠る彼女の頭を優しく撫でる。
「、ん」
微かな呻り声にちょっとドキリとして。
そのまま髪を梳いていたら、どうやら目が覚めたらしい。
「わ!……あ、にお、くん?」
ガバッと起き上がったかと思えば、目の前に俺がいたのに気付いて不思議そうな顔。
その目尻から涙が零れるから、思わず手を伸ばして親指で拭い取る。
「っ!あ、わ…ごめ、帰るね!」
慌てて鞄を掴んで走り去る後姿を見送って。
空を掴んだ手。涙を流す彼女を引き止めたいと思った。
脳裏に焼きついたあの泣き顔が、気になってしかたない。
「参謀」
「仁王か。忘れ物を取りに行ったにしては遅かったじゃないか」
「聞きたい事があるんじゃが、ちょっといいか?」
そう言った俺を見て、参謀は何か感じることがあったんだろう。
人目のつかないところに移動する。正直、その方が話しやすい。
「教室で、あいつ泣いとった」
「…綾か」
参謀が話の分かるやつで助かる。
考えるような、数秒の沈黙。
「ここしばらくはあんな調子だろうな」
「しばらくって、」
「予想としては、今から約二週間。今週末が一番のピークだろう」
参謀の言い方が気になる。
理由も全て知っている。そんな喋り方。
「理由は何じゃ」
「言っていいのか判断に困るところだな。本人に聞くのが一番だろうが…綾のことだから言わないだろう」
「知ってるなら教えんしゃい」
イライラする。はっきりしない言い方は嫌いではないが、今はそれが気に障る。
「らしくないな」
苦笑するような言葉の後に告げられたのは、彼女の重い過去。
きっと悲しくて、苦しいのだろう。
涙の理由はわかったけれど、心には靄がかかったまま。
自分は彼女に何をしてやれるのだろう。
***
「…は、」
思わず逃げるように帰ってきてしまった。
仁王君に悪いことをしたと思う反面、恥かしい。
寝顔を見られたことも、泣き顔を見られたことも。
それにしても、まさか放課後の学校で寝てしまうとは思わなかった。
最近多少疲れていた上に、寝不足。
寝てしまうのは仕方ないとしても、場所が悪かった。
「明日、謝らないと…」
溜め息をついたと同時にコロリと涙が落ちる。
涙腺が壊れたかと思うほど、涙脆くなった気がする。
目が腫れないように、濡れタオルで冷やそう。
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