"ごめん、帰れない"

スマホのポップアップに、そんな一文が表示されたのは17時を少し過ぎた頃だった。

19時に迎えに行くから、いい子で待ってること。

心待ちにしていたそんな約束が、こうもあっけなく崩れ去ってしまうとは。彼の仕事のことは理解していたし、こういうことは過去にも何度かあったけど、それでも今日は一段とこたえる。

だって今日は、私の誕生日なんだから。

新調したワンピースに合わせたネイル。念入りに巻いた髪。見せたかった人には会えなくなってしまったけど、せっかくのおしゃれがもったいない気がして、私はひとりで街に出た。





「隣、いいかな?」

なんとなく入った雰囲気のいいバーで、花のような香りのカクテルを傾ける。
傷心のままひとりでこんなところに来るなんて、映画かドラマの見過ぎだったかもしれない。

そんなことを思い始めた矢先に、これまた映画か何かのようなタイミングで声をかけられたものだから、もう少しだけ、ヒロイン気分に浸ってみたくなったのだ。

「ええ、ご自由に」

「マスター、彼女と同じものをくれる?」

「意外……こんな甘いお酒を飲むなんて」

「へぇ。だったら作戦成功だ。キミの気をひく口実だからね」

赤みのかかった長い髪を括っている彼は、どことなくあの人に似ていた。なんて、そう思いこみたかっただけなのかもしれないけど。

とにかく饒舌な彼との会話は思った以上に楽しくて、彼の行きつけだというお店に席を移してからも、しばらくわたしは上機嫌だった。





「さあ、そろそろお姫様を送って行かないと」

彼の腕に巻かれた、一目で高級なものだとわかるそれは、間もなく0時をさそうとしていた。

「ありがと……おかげで楽しい、誕生日だった」

思い切って白状してしまうと、誰かに祝ってほしかったのかもしれない。たとえ一言でも。

「驚いた。そんな日にキミをひとりにするなんて、ずいぶんとひどい男だね。でも、俺は特別な日をいっしょに過ごせてラッキーだったけど」

そうだな……と、彼は少し思案したあと、

「せっかくだからもう一杯だけお祝いさせて?」

これまで、下心なんて微塵も感じさせてなかった彼の瞳の奥に、ほんのり甘い欲望の色が浮かんだ気がした。
多分、この誘いを受けたらわたしは彼と一晩を過ごすことになる。直感でそう思ったのだ。

「わたし……」

断り方を逡巡していたそのとき、てのひらのスマートフォンが控えめに振動を始めて視線を落とす。
液晶に表示されたのは、今夜わたしをひとりにした張本人の名前だった。

「残念。王子様のお迎えみたいだね」

少しも残そうに見えない彼との距離感は、あっという間に元どおりのそれで。

スマホを耳に当てると、はじめに聞こえたのは大きなため息だった。

「こんな時間までなにしてんのかねぇ、名前は。場所はもうわかってるから、あと1分そこで大人しくしてること」

「えっ、ちょっとなんで?」

「なんでって……GPS追跡すればわかるでしょうよ」

「はぁ!?」

まさか、今までずっと…?なんてツッコミはさておき、声が聞けただけでこんなにも嬉しいんだからわたしも大概この人のことが好きみたい。

「それから言い忘れたけど、誕生日おめでとさん」

ほら、やっぱり耀さんはわたしが欲しい言葉をくれる。

「もう、今さらなによ」

日付は間もなく変わろうとしていて、誕生日はもう終わり。だけど、きっと夜はまだ長い。

「そーゆーわけなんで赤髪くん、うちの子の護衛ご苦労さんだったね」

いつのまにか、声は電話越しではなくなっていた。

「あれ、名前ちゃんの王子様が課長さんだったなんて。驚いたな」

「え、耀さんの知り合いなの?」

「仕事でちょーっとね」

耀さんは、まるで彼とわたしを引き離すみたいに、強引に肩を引き寄せた。

「またどこかで会えるといいね。さっきのことは、王子様にはナイショだよ?」

人差し指を唇にあてて片目をつぶる彼の所作があまりにも絵になるものだから、その後、彼が片手を上げて街の喧騒に消えていくまで、その背中をから目が離せなかった。

「で、俺にナイショでどんないけないことをしてたって?」

ふと我にかえると、耀さんはものすごく、面白くなさそうな顔をしていた。



「だから、本当にっ……お酒を飲んだだけって、言ってるでしょう…….」

マンションに着いてからも耀さんの"取り調べ"は続いて、夜が深まるとともにそれはもう、激しさを増したのだけど、今夜はびっくりするくらい、らしくない耀さんの姿が見られたから許すことにする。

彼の車に乗るや否やの強引な口づけも、後部座席を埋めつくすほどのプレゼントの山も、彼に全く似合わない白いバラの花束も、全部、私のため。

いつだってマイペースな耀さんが、私のためにこれだけの贈り物を揃えてくれたことが嬉しくてたまらなかった。

「なーに、ニヤニヤしちゃって」

「耀さんにはナイショ」

「ほーん。今夜はずいぶんと隠し事が多いことで」

チュ、と音を立てて離れていった耀さんの唇。
首すじには、きっと彼の独占欲のしるしがついたことだろう。

「こうやって妬いてくれるのが嬉しいのよ」

「……言うようになって」

再び重なった唇。
彼の熱を確かめるように背中に腕を回して、もう、何度目かわからない昂まりに身を任せる。

「あっ耀さん……好き、大好きっ……」

「……っ、はっ」

小さく漏れた吐息と同時に、信じられないくらいの快感が全身に走った。



「まったく、ちょっと目を離すとすぐにほかの男に尻尾振るんだから」

明け方、夢うつつに耀さんの声を聞いた気がする。

「ま、これで多少牽制にはなるでしょーけど」

左手を取られたような感覚を覚えたのだけど、閉じた瞼を持ち上げるのさえ億劫で、心地よい眠気に抗うことができない。

「       」

耳元で囁かれたその言葉は、夢か、幻か。

目覚めたとき、薬指にリングを見つけて泣き出したくなることなど、当然まだ知らない。


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仕事でデートをドタキャン→仲直りまでの流れを耀さんでとリクエストいただきました。ありがとうございました!

耀さんと羽鳥さんの秘密レコードを聴いたら居ても立っても居られず、無理やり絡ませてしまいました……。お粗末さまでした。

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