弟が恋をした。

 五男で兄弟の核弾頭と言われる一つ下の弟(といっても同い年だが)が恋をした。
 俺は十四松と彼女について詳しいことは何も知らない。他の四人の兄弟と同じく、自分の目で見たことと十四松から聞いたこと以外は何も知らない。
 それは短い間だったが、誰かを本気で想った十四松は俺たち兄弟が不審に思うほど確かに変わったのだ。彼女のおかげなのか、十四松自身が自ら変わったのか、図り知ることはできないが恋を通して変わったのであれば間違いなく彼女も功労者であるだろう。
 そうして変化した弟は、俺の目から見てそれはそれは眩しかった。
 彼女のためにギャグを連発し、別れの言葉に涙し、けれど再び立ち上がり彼女の笑顔のために全力で駆け抜けた十四松は、我が弟ながら惚れてしまうほどかっこよかったと思う。チビ太のおでん屋で泣いている十四松を見た時、俺は、俺なりに十四松の気持ちを慮ると同時に、何て綺麗な涙なんだろう、とぼんやり考えたものだ。
 掛ける言葉を探したが、俺のようなクズにそんな気の利いたことができるはずもなく、逡巡しているうちに十四松はおそ松兄さんの言葉によって走り出していった。
 迷いのない背中は力強く、涙で汚れた顔をしっかりと上げて走る弟は何て真っ直ぐなのだろうと思った。
 十四松が見つけた恋は本物なのだ。それは純愛と呼ぶに相応しく、騒々しく破壊的だが誰よりも人想いな十四松らしいと思った。
 月が照らし出すその姿は、何よりも輝かしかった。
 俺はそれをただ見送ることしかできないけれど。
 俺は、そして思ったのだ。
 果たして俺は、恋をしたことがあるのだろうか。
 俺の思う恋は、この感情は、恋と呼ぶに相応しいものなのだろうか。
 俺はあんな風に泣けもしないし全力で駆けることもできやしない。
 子どもの頃の憧れを引き摺って、教師に恋する思春期の乙女のように淡い感情に浸っているだけなのでないだろうか。
 そう思ったら無性に怖くなって、彼女の目を見ることができなくなってしまったのだった。

「一松くん?」
 隣から聞こえた声にはっとして視線を上げる。
 首を動かすとじいっとこちらを見つめる大きな瞳があって、思わず視線を逸らす。
「大丈夫?顔色が悪かったよ」
 トト子ちゃんは細い首をこてんとかわいらしく曲げて言う。鈴の音のような声はまるでまじないのような響きさえ持っていた。
 ああ、失敗した。
「なんでもない。…ごめん」
 こぼれ落ちそうな宝石のようなふたつの瞳に射抜かれてしまえば、メンタルさえ矮小な俺は縮み上がって言葉少なに答えるのみだ。
 トト子ちゃんはけれどやはりこんな俺とは違って器も大きく、気にした様子もなく「そう」と言って前を見た。
 沈黙が支配する。
 口を開くことが億劫なので人といてもあまり話そうという気にならない惰弱コミュ障な俺だが、この空間で無言はさすがに耐えられず、口を何度か開け閉めしてみたがそれでも上手い言葉など見つけられるはずもなく。
 不意に、俺の隣に座るトト子ちゃんがすらりとした足を投げ出し頭をこちらの肩に預けてくる。
 暖かい。それに心地よい重みがどうしようもなくその存在を訴えてきて、途端に愉快なほど跳ね始める心臓が痛い。
 …イッテエな。クソ松をどうこう言えたもんじゃない。
 それでも声すら出せず心臓が口から飛び出してしまわないよう努めていると「あのね」と綺麗な声が再び響いた。
 前髪に隠れたトト子ちゃんの表情は読めない。
「トト子ね、お見合いするの」
 さらりと打ち出された爆弾に俺は脳天を殴られたような衝撃を覚えた。
 オミアイ?なんだっけそれ、どこかの国の名前だったか。
「ほら、何だかんだ言っても私たち、もういい歳じゃない。アイドル辞めてから、急に両親が勧めてくるようになって」
 どうしても断りきれず、来週末に相手と会うことになった。
 そうトト子ちゃんは続ける。
「私もね、このあいだ一松くんたちに無視されて思ったの。私たち、いつまでも子どものままじゃいられないし、自分がどう思おうと周りは否応なく変化を望むものなんだって」
 いつまでも、俺らのアイドルじゃいられない。
 そうつぶやくトト子ちゃんの唇は、まるで知らない誰かのもののようにひどくかさついていた。
 彼女の言うことは正しいと思う。
 いくらクズニートの怠惰で不変な生活が心地よいからといって、いつまでもこのままでいられないのは俺らだって、俺だって一緒だ。そんなことはわかっている。
 いつか両親は死ぬだろう。十四松のように兄弟の中で、何より大切な人を見つけてこの家から巣立っていく奴だって現れるかもしれない。
 モラトリアムはそういつまでも続くものじゃない。
 ならば、俺もそろそろこの気持ちを手放してもいいのではないだろうか。
「いいんじゃない。好きにすれば」
 気付けば勝手に漏れていたのは、我ながらとても冷たい声だった。
「トト子ちゃんがいつまでもアイドルしてられないのと同じように、俺だっていつまでもトト子ちゃんが一番なんて言ってられないし。トト子ちゃんがそれが良いと思うんだったら、そうすればいい」
 そうだ。人は変わっていく。地球は回る。
 恋なんてできないクズなのだから、みっともなくしがみついているわけにはいかないのだ。
 この気持ちが恋ではないのかもしれないなんて、そんな曖昧な思いをいつまでも抱えていたところで、トト子ちゃんの足を引っ張るだけだ。
 …いや、建前を使うのはよそう。俺はただ、怖いだけなのだ。
 愛を知らない。いつまで経っても幼い頃の未練のようなものを引き摺ったまま。他者と必要以上に接することで、傷付くのが、怖い。
 だから断言できなかったのだ。恋なんてしてしまえば、今よりもっと最底辺ゴミクズの弱い弱い人間に成り下がるのは目に見えている。
 俺は十四松のように強くないから。
 誰かを本気で愛してしまえば、いつかもしそれが裏切られてしまった時には、もう二度と立ち直ることなどできないだろう。
 恋に恋する乙女のように、なんて滑稽だが微温湯に浸かっている状態がひどく気楽だったのだ。
 ああ、もういい。
 だから、手放してしまえばいい。
 トト子ちゃんだって、俺だって、いつまでも同じ舞台に立っているわけにはいかないのだから。
 吐き捨てた表情が見られないように片手で前髪を掴むと、肩の重みが急に消える。
 隣で空気の動く気配がして、今度こそ愛想を尽かされただろうか、と思った。
 それでいい。傷付く前に、立ち上がれないほど大きくなってしまう前に、背を向けた方が得策なのだ。
 不意に。
「えいっ」
 かわいらしい響きを持って、俺の頬が両側から何かに挟まれた。
 やわらかいそれは紛れもなくトト子ちゃんの手で、俺のよりずっと小さいそれが信じられないほど暖かいのをぼんやり感じていると、俺の目の前に来たトト子ちゃんが困ったように笑った。
「泣くくらいなら言わないでよ、もう」
 細い指が動いて俺の頬をなぞる。何かが伝う感覚があって、俺は、ようやく自分が泣いていたことに気が付いた。
「さっき言った言葉。一松くんが本当にそう思っているなら、トト子も諦めるわ。だけど、嘘だって丸わかりなんだもん」
 トト子を舐めないでよね。何年、一松くんたちの幼馴染みしてると思ってるの。
 トト子ちゃんはそう言ってにっこりと微笑む。
「こんな時くらい素直になってよ。せっかく発破かけてあげたのに」
 こてん、と。お得意のポーズをするトト子ちゃんに、俺は同じ仕草を返しそうになる。
 発破とは。
「冗談よ。お見合い話なんて来てないの」
 ころころと笑みながらトト子ちゃんは白状する。俺はすっかり呆気に取られてしまい、馬鹿みたいな顔でトト子ちゃんを見つめる。
 いつの間にか、目線が合ってしまっていた。
「最近一松くん、様子が変だったから。…十四松くんのことがあった後くらいだったかな。だから本音を引き摺り出そうと思って。トト子、名女優☆」
 ばちこーん、と星が飛び出しそうなウインクを決めて言うトト子ちゃんは、子どもの頃のままだった。
 変わらないことなど有り得ない。
 人は大人になる。時は流れる。
 ああ、だけど。
 大事なものは、何一つ変わってなどいなかったのだ。
 俺のこの気持ちだって、きっとそう。
 驚くと同時に、腰が抜けそうなほど安堵している自分自身を感じて、俺は目元を拭う。
「…女優っつーより、小悪魔だよね、トト子ちゃん」
 普段の自分らしくニヤリと笑いながら言うと、トト子ちゃんは再び笑う。
「小悪魔って素敵な響きよね」
 その笑顔が眩しくて、ゴミな俺には、目が開けていられないほどだったけれど。
 目が潰れても、使い古されても、利用されても、やっぱり離れることなどできやしない。
 この女の子はいつまで経っても紛れもない、俺の、俺だけのヒロインだ。
 俺の表情が変わったことを感じてか、トト子ちゃんが立ち上がり、スカートの皺を伸ばしつつくるりと回る。
 俺はそんなトト子ちゃんを見上げながら、ふと思った。
 いつまでトト子ちゃんは俺に隣を許してくれるのだろう。俺は離れるなんてできないが、トト子ちゃんにとってのリミットなど俺には計り知れないから。
 終わるその時まで側にいたい。ならばその終わりは、いつ。
「トト子ちゃんは、いつまで俺と一緒にいてくれるの」
 言って失敗したと思った。
 まだネガティブに囚われているのかと自分を詰りたくなるが、これはもう性分としか言いようがない。きょとんと振り返るトト子ちゃんに失言だったと言おうとして、しかし彼女は吹き出した。
 憎まれ口は伝染るのか、そして彼女は、少しだけ呆れたようにつぶやく。
「一松くんが私のお見合いで泣かなくなるまで、かな」
 言った後、けれど笑顔を取り戻すトト子ちゃんに俺はまた泣きたくなってしまって。
「じゃあ、一生無理だね」
 誤魔化すように立ち上がりながら返すと、ふふっと笑ったトト子ちゃんはこっちに向き直って一歩、二歩とジャンプするように近寄ってきた。
 ふわりといい匂いが鼻を擽る。
「仕方ないから、一生側にいてあげる」
 飛び込んできたトト子ちゃんを受け止めながら、その小さな身体を抱き締める。
 真っ直ぐでも純粋でもないけれど、不格好なこの想いを、それでも恋と呼んでいいのなら。
 もう手放そうとなんてしない。かわいくて、我儘で、奔放で、愛しい彼女に殉じよう。
 やわらかな体温を全身で感じながら、大切なものを愛でるように、俺はまっしろなトト子ちゃんの額に唇を落とした。



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