路地裏から、声が聞こえたような気がした。
気になって立ち止まると、薄暗がりの中に誰かの人影が見える。
見慣れた後ろ姿だった。
音を立てないよう、こっそり。影で気付かれることもこの暗闇の中ではないし、何よりターゲットは猫に夢中で自分の世界に入っているようだった。
「えいっ」
つん、と背中をつつくとびくんと跳ねた肩が驚きを如実に表して、思わず笑ってしまった。
ふふ、いい気分。
「…なに」
笑い声で向こうもわたしを認識したのか、振り返る表情は少し困っていたけれど僅かな安堵が見て取れる。
一松くんはいつもこう。知らない人とか予想外の出来事には弱いくせに、相手が知り合いだと強気な態度を見せる。
だけどそれは、見た目だけなんだろうけど。
「何してるの、一松くん」
「…見てわかるでしょ」
しゃがみ込んでいる一松くんに合わせて座ると少し視線を逸らされた。
その腕の中にはオレンジ色の毛並みの人懐っこそうな顔をした猫が一匹。
そう、いつだって一松くんはここで猫と戯れている。
「今日も猫ちゃんと仲良しね」
ふふ、とまた笑うと一松くんはふんっと鼻息を漏らす。だけどその顔はさっきとは少し違って眉尻が垂れて嫌そうなオーラが増す。
あら、機嫌を損ねちゃったかしら。
「…関係ないだろ」
半身を引いて、こちらに背中を向ける一松くんはひどく寂しそうだった。
馬鹿にしたんじゃないのに。卑屈な一松くんはいつもこう。
「関係なくないわ」
だから、わたしは距離を詰めて、丸まった背中に右肩を預ける。
触れた体温に一松くんの息を詰める音が聞こえた。
「トト子も撫でてほしいの」
おねがい。囁くと一松くんはしばらく硬直していたけれど、やがてゆっくりとこちらを振り返る。
とっても困っている顔をしていた。
「何の冗談?」
心底怪訝そうに、不審そうに聞いてくる一松くんにわたしは思わず頬を膨らます。心外だわ。心の底からのお願いだったのに。
「冗談なんかじゃないわ。猫ちゃんが羨ましいわ、って言ったのよ」
素直じゃない一松くんの唯一、何の気兼ねなく触れる相手。
その優しい手で撫でられて、綻んだ顔で見つめられて、体温を共有できる猫が羨ましい。
できるならわたしも、同じように構ってほしい。一松くんともっと仲良くなりたいの。
伝わるようにじっと見つめると一松くんは戸惑うように猫から片手を離してその手をさ迷わせた。
おねがい。その言葉の効果は存外高かったみたい。
やがてぽすんと頭に乗せられる大きな手。わしゃわしゃと、女の子に対するというより本当に動物を構うみたいな乱暴な手つきだったけれど、嬉しかった。
少し、距離が縮まったかしら。
「もっと撫でて」
要求しなければすぐに離れてしまいそうだったから、間髪入れずに言うと一松くんは変な顔をする。
「…物好き」
吐き捨てるように呟いた言葉には困惑が混じっていた。
「俺じゃなくて、家にはおそ松兄さんもチョロ松兄さんもいる。あいつらならトト子ちゃんに撫でてって言われたら喜んで動くぞ」
早口で言われた台詞にわたしはかちんときた。
それはわたしのプライドを揺さぶる言葉だったから。
「馬鹿にしないで」
考えるより先に口が動いて、一松くんは微かに驚く。
見上げると見開かれた目にわたしが映っているのがわかった。
「誰でもいいんじゃない。トト子は一松くんに撫でてほしいの。猫が羨ましいの。トト子だってずっと、一松くんのそばにいたいのに」
だってトト子は一松くんのことが、
続きを言おうとしたけれど叶わなかった。
唇に柔らかいものが触れる。視界が急に真っ暗になって、言葉は寸断されたように封じ込められる。
やがて一松くんの顔が離れたけれど、その瞳は逸らされていた。
「…ごめん」
我慢、できなくなった。
小さく呟いて、俯く。
それはきっと、一松くんなりの告白だったんだろう。
素直じゃない一松くん。人との距離感が掴めなくて、つい憎まれ口を叩いてしまって、擦れ違うことを恐れているから自分から手を伸ばすこともできなくなってしまった、臆病な人。
わたしは一松くんのことが好き。
離れるのが怖いならいつだってわたしから手を伸ばしてそばにいてあげる。
素直じゃない言葉でもぶつけて。それが一松くんの本音なんだから。
怯えて萎縮しないで。いつだって受け止めたいから。
愛して。
一松くんの腕を掴んで、その胸元に頭を埋める。
「好きよ、一松くん」
やっぱり、びくりと跳ねたけれど、熱い吐息が零されたのがわかった。
「…俺、も」
震えた声だった。そろそろと、二本の手がわたしの背中に回される。
伝わったかどうかはわからない。一松くんのことだから、それでもいつかは信じられずに困りきってこの手は断たれてしまうかもしれない。
でもね、そしたら、その度に囁くわ。
信じられるまで何度だって、その度に言ってあげるから。
だからもう少しだけ、わたしにもその温かい手をちょうだい。
暗い路地の向こうで、猫が小さく鳴く声が聞こえた。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -