ふいに頬の横を横切った手に幹は驚いて振り返った。長椅子にもたれながら紫煙を燻らす檎が悪戯が成功したように笑うので、溜息を吐き顔を戻す。兄たちの上司であるこの男とは浅からぬ縁があるが、未だにどういう人物なのか掴み切れない。個人主義で金の亡者のような乾燥して冷徹な一面を覗かせる一方、今のように気紛れに幹を構ってはゆるりと微笑むのである。アイドルなどという浮世離れした職業に就いてはいるものの、幼少より至って真面目な性格を築き上げてきた幹にとっては、地獄で有名な補佐官様の次に理解のしがたい知り合いであった。
だがそんな彼とも、このところは過ごす時間が増えてきた。別に仕事関係で縁ができたとかそういうわけではない。ただ、気が付けばどちらともなくお互いの傍に寄っているのである。今だって、久々の休みを存分に享受しようと外に出たはいいものの、特にすることもなく椅子に腰掛けて空を見ていたら、いつの間にか隣に座っているのだ。以前はこの逆もあった。それでも不思議なことに、何故だか居心地が良いのである。
「ミキちゃん」
名を呼ばれて振り向くと、いつの間にか檎の顔が先程よりもずいぶん近くにありぎょっとして身を引いた。先程と同じように、愉快そうに細められた目は三日月型に歪んでいる。引いた距離を詰めるように、さらに檎が覆い被さってくる。彼の吐息が睫毛を震わせたような気がした。
「な、何ですか…?」
檎の思惑の前に、ここは天下の往来である。彼がどういうつもりかにせよ、第三者が見れば一発で誤解してしまう体勢であるのは紛れもない。慌てて辺りを見渡すと、何故かつい先程まではちらほらと見えていた通行人は一人もいなかった。
「軽い結界を張ったから、誰にも見られんよ」
檎は軽い調子でそう言い、幹の身体の両脇に手を付いた。幹の身体を支えているのはもはや椅子の腰掛け部分のみであり、これはもう押し倒されていると言ってもいい姿勢になっていた。彼の顔がさらに距離を詰めてくる。爬虫類のような瞳がこちらをじっと見詰めてきて、身体が思わず震えた。
既に視界は檎でいっぱいになっている。抵抗しても、意外に体格の良い彼と非力な自分では力の差は歴然としていた。幹は諦めて瞳を閉じる。空気が動き、檎が更に迫ってくる気配がした。
「なあミキちゃん」
聞こえた声にぴくりと反応すると、瞼に温かく柔らかいものが乗った。驚き、目を開けると離れていく彼の顔が見える。呆然と見ていると、檎は平生通りの人を食ったような笑みを見せ、静かに言った。
「何で逃げんの」
静かだけれどとてもとても重みのある声だった。どきりと、心臓が脈打つのが分かり、幹は反らすように瞼を伏せる。
そうなのだ。彼はマイペースだが無理強いをするような人間でないのを、幹は良く知っている。力の差はあれど、きっと拒絶すればすぐに退いてくれただろう。忘れていたわけではないのに、どうして逃げようとしなかったのか。理由は自分でも理解できない。
考えあぐねていると檎は起き上がり、身体を離した。次に聞こえた声はもう聞き慣れた穏やかで軽いものであり、左胸をぎゅっと握りながら幹も上半身を起こす。辺りには、いつの間にか通行人が闊歩していた。
「あまり男に対してそう無防備じゃと、いつか変な輩に襲われてしまうぞイ」
からかうように笑って檎は去っていく。その背を見送りながら、幹はすっかりと赤くなった頬を押さえた。彼は、自分という人間を掴めていないのだろうか。幹がそうであるように。俯いたまま、大丈夫です、と微かに呟き、ほんの少し微笑んだ。貴方にしか許しませんからなどとは、口が裂けても言えはしない。
幹はそっと息を吐く。地獄特有の温い風が、火照った頬を掠めて擽ったかった。


Thanks:約30の嘘



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