「…あの、お、お兄、ちゃん」
熱が出た。いや、正確には顔中、下手したら身体中の体温が一瞬にして上昇したというだけの話だったのだが(それはそれで大事な気がしなくもない)、どっちだろうと興味はない。それを訴えるにも俺の周りにいる人間は声の発生源である目の前の少女だけだし。
そろそろと見上げられる視線、こちらを伺うような瞳の下の頬は真っ赤で、必死で俺も赤くなりそうなのを耐える。
何でもない、そう、ただの呼称だ。だけれど普段呼ばれていない名前で言われていない相手に呼ばれるとどうしてこんなに恥ずかしいのか。
それでも、一番恥ずかしいのは言った当の本人である杏里だろう。場の空気を打ち破ろうと、とりあえず俺は杏里を部屋へ招き入れる。妹にお兄ちゃんと呼ばれると照れてしまう兄妹ってどんなものなのかと、心中でツッコミながら。



久しぶりに会った杏里は身長から雰囲気から何から何まで変わっていた。
それはやはり久しぶりだという俺の目が見せる幻も入っているのかもしれないが、実際数年前に会った時とは明らかにオーラが違うというか、あのおどおどとした雰囲気はなくなっているように思える。
まあ冒頭の「お兄ちゃん」呼びがかなり効いているようで未だに俯いたままなのだが、それを強要したのは俺ではないということはあらかじめ主張しておこう。原因はたぶん幽だ。あいつ、杏里に何を吹き込んでんだ。
確かに、兄である以上一回ぐらいはそう呼ばれてみたいと過去に言ったことはあった。幽はそういう呼称を使うタイプではなかったし。
だけれどTPOというか、時と場所ぐらいは考えてほしいものである。おかげでせっかく久々の再会だというのにぎこちない雰囲気がまだ払拭できていない。対面で座ったはいいものの茶も出してしまったからもう次に移せる行動も考えつかないし、ただ黙って会話のきっかけを探していると。
「静雄お兄ちゃん」
俺は再び、湧き上がってくるえも言われぬ気恥ずかしさに座布団に突っ伏すことになった。全く不意打ち、心の準備もできていないからみっともないところを見せてしまった。
頭上で杏里の戸惑っている声が聞こえる。伏せているうちに赤くなった顔を戻そうと努力して数秒、起き上がってとりあえず俺は杏里に頼んだ。
これ以上その呼び方を採用されるとこちらの身がもたない。
「あー…ふ、普通に呼んでいいぞ?」
そう言うと杏里は一瞬きょとんとしたあと、意味を理解してほっとした表情になった。やはり杏里も恥ずかしかったらしい。雰囲気も幾分か柔らかくなる。
「じゃあ…静雄さん、でいいですか?」
俺が一人暮らしを始める前は、よく使われていた呼び方である。少し他人行儀な気もするが呼ばれ慣れているしそういう距離感の方が俺たち兄妹にはいいのだろう。
頷くと、杏里は話を切り出した。
「あの…、ありがとうございます、同居を許してくれて」
同居というのは、もちろん俺と杏里がということで、どこでかというとこの部屋でである。
今年の春から高校に進学する杏里は、その在学中俺の部屋に住むことになったのだ。
高校というのはここ池袋にある俺もかつて通っていた来良学園なのだが、通うには俺たちの実家からでは些か遠いという問題があった。池袋に部屋を借りて一人暮らしをするのはさらに金を使うことになるため杏里本人が渋り、ならばとその間はこの辺りで働いていて土地勘もある俺の部屋から通学することになったのである。
既に杏里の私物は届けられていて(といっても小さな頃からあまり物に執着しなかった杏里らしく量はそれほどないのだが)、今日からこの部屋で互いにとって新たな生活が始まる。
一人暮らしは気楽だったがそれゆえ時には心細くなるし家事も全て一人でやらなければいけなかった。だから正直、今回の同居はかなり嬉しい。杏里も確か料理上手な方ではなかったが、二人なら解決できる問題というのもあるだろう。この日を俺はかなりわくわくして迎えた。
だが冒頭の言葉でその高揚が早くも打ち砕かれつつあるというのはもうしつこいので言及しないけれど、幽には後で言っておかないとな。
「ご迷惑をおかけするかもしれませんが、これからよろしくお願いします」
三つ指でもつきそうな丁寧な声色で頭を下げられ、何となく懐かしい気持ちになる。
時間の経過に惑わされていたが、こういう真面目で礼儀正しいところは変わっていない。記憶にあるままの杏里だ。
ようやく昔の自分たちを思い出し、俺も言葉を返す。
「いや、こっちこそよろしく。まあ、楽しくやっていけたらいいな」
「はい。そうですね」
零れた花のような笑顔は、子供の頃のとても可愛らしいそれだった。
つられて笑い、和やかな気持ちになって、ようやっとぎこちなさはなくなったかなと考える。
不慣れな生活に突入して困難もあるかもしれないが、なんとかやっていけるだろうと確信に近いものをこの時の俺は感じていた。何てったって俺たちは、兄妹なのだから。
とりあえず、茶でも飲んだら買い物に行こう。夕飯の食料調達はもちろん、今後杏里が使うものを買っておく必要もあるだろう。少し歩いたところにスーパーがあるから、そこまで二人で。
道中知り合いに会ったら自慢してやろう、と小さなたくらみを胸に秘め、俺は杏里に声をかけた。



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