Short Dream



「歩」

私を呼ぶその声に、身体はピクリと反応した。
ゆるゆると顔を上げてみると、其処には相変わらずの優しい笑顔。
「えっと…」
なんて呼べばいいんだっけ?
なんて呼べば、彼は満足するんだっけ?

ふと、優しい笑顔のほうに、誰かが駆けていくのが見えた。
『――!』
幸せそうな笑顔で、その人に誰かが飛びつく。
その人も誰かをしっかりと受け止めて、呼ぶのだ。
「歩」
私と同じ名前のその「誰か」のことを。

「あ…」

私の夢はそこまでだった。
それをタイミングよく遮った優しい笑顔の持ち主の手、それは私の頭の上に置いてあった。

「すまないな、歩。ゆっくりで良いんだ。すまない…」
「…」

何処までも、優しい笑顔。
思えば最初は、この笑顔を利用することしか考えていなかった。
血縁だからと私を引き取ってくれた伯母に見捨てられた私が事故で眠り続けている最中に、ずっとそばにいてくれたその人。
この人しか、私には頼れる相手がいない。
この人がいなければ生きていけない。

でもなくなった記憶なんてどうでもよかった。
記憶が無くたって私は生活ができるし、一からまた覚えなおせばよいのだと。
たとえ目の前にいるその人の名前を、覚えることが出来なくたって、私が今の私を知っていればそれでよいのだと。

薄情な人間かもしれない。
でも、好きでもない人に私が抱く思いなんて、所詮はそんな軽いものだった。


それなのに、私の感情はあっけなく覆されてしまった。

日にちが経つにつれ、名前を理解できないその人が【かわいそう】になってきたのだ。
いつまでたっても私のことを信じ続けてくれている。
昔の私を待ち続けているのだ。
『必ず…必ず帰ってくると、約束したんだ』と、毎晩一人で震えながら。

だからせめて、その人の名前くらいは憶えたかった。

けれど不思議なことに、あの人の名前らしき言葉は、この、耳には入ってこない。
紙に書かれても、その文字が見えない。
なぜか、私はその名前を拒否しているのだ。
消し去りたい過去だとでも言うように。
ここで足踏みをし続けたいのだというように。

刹那、


『ねぇ、待ってよ。――』


するりと、誰かが私の横を通り過ぎた。
慌て振り向くと、誰かの走る先にはあの微笑み。
『歩』
優しく私を撫でるように呼ぶ声。

――私も、あの声のもとに駆ければいいのだろうか?

急に、そんな不毛な考えが浮かんだ。
何をバカな、だって私は知っている。
あのふたりは、まぼろし。
飛び込みに行こうとしたところで、この身体はあの二人の髪の毛一本すら掴むことが出来ないだろう。でも。

「歩」

…私は、知りたいと願うようになってしまった。
私は聞きたい。掴みたいのだ。
優しい微笑みを見せるあの人のことを。

「待って、ねぇ、待って」

すべてが白と黒のドットで表現されたような、そんな無機質な世界を、私は走る。
まだだ、まだ消えない。
目の前にいるあの人の前にいる影は、なぜかもうなくなってしまっているけれど、あの人だけは消えていない。

「歩」

優しい笑顔。
私よりも一回り大きな手のひら。

触れた幻は、なぜかひどく暖かかった。




「歩?」

やけに、言葉が近くに聞こえた。
この世とあの世の境界線に、ずっといたような朦朧とした感覚が、徐々にはっきりとしていく。
目の前に映るその顔は、夢のそれよりも不安げで、ゆがんで見えた。

「ネジ」

自然に、さらりとその言葉が出た。
ああ、そうだ。
はじめて会ったとき、「随分金属的な名前ですね」と私が笑ってからかった名前。
どうして忘れていたんだろうか、もう一度、確かめるように、私はその名前を呼んだ。


Erase
メビウスの輪は切断しちゃえばいいんだ。


未完結の拍手文だったものをリメイク


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