「やっぱりないなあ……」

 放課後の誰もいない教室で、わたしは静かに溜め息をついた。窓の外を見るとそろそろ陽が沈みそうな頃合いで、グラウンドでは野球部の人たちが最後の追い上げ練習をしていた。今日はサッカー部の人たちいないなあと頭の片隅で考えて軽い現実逃避をする。正直面倒くさくてもう帰りたかった。

 携帯電話がいつも手元にないと不安になってしまうほどの現代っ子ではないけれど、個人情報の詰まった端末機器を紛失したとなれば話は別だ。心当たりのある場所はすべて回ったし、落とし物として届けられていないか先生にも聞いてみたし、友達にも協力して一緒に探してもらったけれど、放課後になってもわたしの携帯は出てこなかった。実は鞄に入っていたというオチならお騒がせしたことをみんなに謝るだけで済むのにそれすらない。ここまで見つからないとなるともう面倒くさくなってきて、もう少し探してみて見つからないようだったら携帯会社に連絡するなり何なりしよう、と放課後の教室に一人残って探していたところだった。
 もし誰かの手に渡っていたのなら、友達とのあまりにもくだらないやりとりや、授業中お腹が空いたのを紛らわせるためにミスドの新作ドーナツのことを熱心に調べていたことなんかがばれちゃうんだろうなあと思うとちょっと恥ずかしい。結果余計にお腹が空いてお腹が鳴ってしまったのを隣の席の一之瀬くんに聞かれたのを思い出してじわじわと恥ずかしい思いを繰り返していると、教室の扉が開く音がした。誰か忘れ物でもしたのかなと思い顔を上げると、そこには部活が終わったのか制服に着替えた一之瀬くんがいた。噂をすれば何とやらだ。

「あれっ名字さんどうしたの?」
「あー、えーっと、ちょっと携帯失くしちゃって……」

 苦笑いで返すと、今日の3限のときは持ってたよね?と一之瀬くんは不思議そうに返してきた。今日の3限目というのははまさにわたしが携帯でミスドの新作ドーナツのことを調べていたときだ。お腹が鳴ったわたしを一之瀬くんはおかしそうに笑って、それから二人でミスドの話で盛り上がったのだ。一之瀬くんはハニーチュロスが好きらしい。
 頷くわたしを見て、一之瀬くんはその辺の机にスポーツバッグを置いて「一緒に探すよ」と笑顔で言った。

「えええええいいよいいよそんな!!申し訳ない!!」
「でもないと困るでしょ?」
「で、でもわたしが勝手に失くしたんだし部活が終わって疲れてる一之瀬くんの手を煩わせるわけにはいかない!!」
「全然疲れてないって!」

 むしろまだまだサッカーし足りないくらいだよ、と言って一之瀬くんはウインクをした。やだ一之瀬くん超イケメン…!わたしは申し訳なさと恐れ多さで思わずお辞儀をする。一之瀬くんはそんなわたしを見て、こんなに感謝されちゃあ助けがいあるなあ、と笑った。優しいなあ、昼休み携帯がないと探し回っているわたしを見て何やってんだお前、と馬鹿にした表情を浮かべるだけ浮かべて一切手伝おうとしなかった半田に一之瀬くんの爪の垢を煎じて飲ませてあげたい。思い出したら本当に腹立つ。
 教室は散々探したと思うから移動教室で使った教室を探してみよう、という一之瀬くんの提案により、5限目の授業で使った視聴覚室に行くことにした。保健の授業でお酒や煙草などが身体にどんな影響を与えるのかという教育ビデオを見たのだ。煙草によって黒く染まっていく肺の画像はとってもグロテスクだったので、なんだか将来の染岡くんの心配をしてしまった。

「名字さんどの辺座ってた?」
「えーっと、窓際の真ん中の列かな」

 俺保健の授業ずっと寝てたなー、と笑いながら一之瀬くんは机の中や下を覗き込んでいる。わたしは将来の染岡くんの心配してたよ、と言うと一之瀬くんは声を上げて笑った。

「それ染岡に言っていい?」
「えっ!!?だめだよ染岡くんにぶっ飛ばされる!!」
「あっはは、大丈夫だよ、俺がそんなことさせないから」

 さらっと殺し文句を言いだす一之瀬くんに吃驚して一瞬動きが止まった。いやあこれはモテるわ……と妙に納得してしまう。今更だけれど、こうして一之瀬くんと二人でいるところを誰かに見られてしまったらわたし女子からフルボッコにされるんじゃないかなと思うとぞっとした。

「一之瀬くんさすがだね!アメリカンだね!」
「えっ?」
「優しいしかっこいいしサッカー上手だし英語もペラッペラだし優しいし、モテモテなのも納得だよ」
「ええ?そんなことないと思うけど」
「半田なんか手伝ってもくれなかったよ!まあ勝手に失くしたわたしが悪いんだけど……一之瀬くんはわざわざこうやって一緒に残ってくれたりして、優しいなあって」

 やっぱりないなあ、と独り言のように呟いてから机の下をのぞくために屈めていた姿勢を正すと、一之瀬くんがすぐ後ろに立っていたのに驚いて思わずうわっ!と声を上げてしまった。い、いつの間に…!そろそろ夕焼けの色が濃くなってきて、教室全体が暗くなってきたから気がつかなかったのかもしれない。
 一之瀬くん忍者みたいだね!と言おうとして開いた口を、わたしは思わず閉じた。見上げた一之瀬くんの顔がなんだか一之瀬くんじゃないみたいな、うまく言えないけれど、見たことのない表情をしていたからだ。

「一之瀬くん?」
「俺、名字さんが言うようないい奴じゃないよ」
「えっ、」

 そうなの?と馬鹿みたいに率直に聞いたわたしを一之瀬くんは小さく笑って、わたしの手首をつかんだ。決して乱暴な手つきではないのにとても力強くて、わたしは戸惑った。わたしは一体何故一之瀬くんに手首をつかまれているんだろうか。そんな逃げたりしないのに。

「うん。本当は5限の後、名字さんがここに携帯忘れてったこと知ってたんだ」
「え!?」
「一緒に探してあげるふりをしたら、名字さんは俺のこと優しいって思ってくれるかなあとか」
「 、」
「名字さんをここに連れてくれば、二人きりになれるかなあ、とかさ」

 一之瀬くんはそう言ってわたしの携帯をすっと差し出した。画面が友達にかけてもらった着信の通知でいっぱいになっている。もうすぐ充電が切れそうだ。何も言わずに受け取ると、一之瀬くんは声を潜めた。

「そういう奴なんだ、俺」

 そうやって微笑む一之瀬くんからわたしは目を離すことができない。焦りからなのか緊張からなのか判別ができないけれど、心臓の音が頭に直接響いてくる。夕暮れに染まる教室で一之瀬くんと二人きり、という女子なら誰もが喜びそうなシチュエーションなのに、状況と一之瀬くんの言葉がまるで釣り合っていない。アンバランスだ。
 お礼を言うべきなのかどうなのか困って目を泳がせていると、開けっ放しの教室の扉から女の子たちの話し声が聞こえてきた。わたしはぎょっとして、咄嗟にこの状況を見られたらまずいという考えが頭に浮かび思いっきりうろたえていると、つかまれたままの手首を思いっきり下に引っ張られた。

「!?」
「しっ、」

 危うくお尻を強打するところだった。
 一之瀬くんに引っ張られて、二人で机の陰に隠れるような形でしゃがみこんだ。あ、今隠れてるんだ、と理解したのと同時に冷静に考えて、一之瀬くんがすぐ手を離してくれたらよかったのにと思ったけれどもう遅かった。やけに熱いのは、一之瀬くんと距離が近いからだろうか。教室は寒いはずなのに。
 一之瀬くん、と小声で名前を呼ぶと、もう一度しーっ、と黙るように言われた。なんだか楽しそうに一之瀬くんは笑っている。その笑みはやけに色っぽい。わたしはもし見つかったらと思うと恐ろしくて仕方がないんだけれど。

「…………」
「…………」
「…………行った?かな」
「……うん」
「まあ俺は誤解されてもよかったんだけどね」
「は、」

 もしかして一之瀬くんって性格悪いの?と純粋に浮かんだ疑問は口にすることなく終わった。

「本当のことにしちゃえばいいんだしね」

 一之瀬くんはさっきから笑ってばっかりだ。わたしは全然笑えない。一之瀬くんが実は性格が悪いことも、つかまれたままの手首も、うるさい心臓も、この熱も、振り払えない自分も、わけがわからないし笑えない。ミスド好きに悪い人はいないと思ってた。
 手首に回された手は離れないまま、もう一方の手がわたしの頬に触れた。「名字さん、顔熱いね」顔が近い。そんなのわたしのせいじゃない。ほんのりと香るこのにおいは、一之瀬くんが使うワックスか何かだろうか。

 離れろ、と思いっきりぶっ飛ばしてやればいいのに。わたしは何故一之瀬くんに身を委ねているんだろう。くらくらするこの熱がどこか心地よい。

「 、ミ!!」
「ミ?」
「ミ、ミスド!あとで、行こう、ね!」

 苦し紛れに必死に言葉を紡ぐと、一之瀬くんはやっぱり楽しそうに笑ってうん、と言ってから顔を近づけてくるので、もうどうにでもなれとわたしは固く目を瞑った。



20140302
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