じんわりと赤らむ頬と困ったように下げられた眉。控えめに伏せられた上向きのまつ毛がおずおずと上がり、期待と不安が入り混じった少し潤んだ瞳に覗き込まれる。慣れたはずの本の匂いと埃の匂いにむせ返りそうになって、俺は小さく息を吸い込んで、そのまま呼吸を止めた。







 期末試験1週間前にはすべての部活が活動を停止して、全校生徒には余念なく勉強に勤しむ時間が否応なしに提供される。放課後の図書室は勉強熱心な生徒で溢れかえるためか、「なんか居づらい」と言って名字は最近の放課後は屋上に入り浸っている。このクソ暑いのになんで好き好んで屋外にいようとするのか理解に苦しむけれど、給水塔の裏の日陰の中は思ったよりも涼しい。
 綿あめみたいな入道雲がもくもくと空を昇っていくのをぼんやりと見ていたら、隣からおいしそうだなあ、とつぶやく声が聞こえて苦笑する。

「南雲くん勉強しなくていいの?」
「おー……三日前から本気出す」

 余裕だねえ、と名字が笑う。別に余裕なわけではないけれど、補習を受けないくらいのある程度の点数が取れればそれでいいような、あまり向上心のない俺にはこれくらいがちょうどいい。ただ、英語は少しだけがんばらないとまずい。
 蝉の声をBGMにただ何もせずに名字と過ごす茹だるような昼下がり。名字の葬式の日も鳴いてたなと蝉に思いを馳せる。図書室と違ってここは外の音が聞こえる分にぎやかだ。きっとこの何もしていない時間を勉強に割当てれば効率が良いのに、と思うけれど、俺はなんとなくこの時間が嫌いじゃない。理由は不明瞭。

「あ、そういえば南雲くん、聞きましたよ」

 不意に名字が改まった声を上げた。床に座り込んで、壁に寄りかかる俺をにやりとした笑みを浮かべて見上げている。なんだその悪い顔は。俺はちょっと身構えてその先を促した。

「1年生の女の子に告白されて、今度のお祭り一緒に行こうって誘われたんだって?南雲くんやるー!」
「なっ、」

 なんでお前が知ってんだよ、と焦って思わず語気を荒げたら、女子の情報網をなめたらいけませんと言って下手な口笛を吹いて、名字はますますにやけている。
 大方そのへんで噂をしていた女子の話を立ち聞きまたは盗み聞きしたんだろうと思う。厄介なことになった。名字に知られたらこんなふうにおもしろがられることは想像できたのに。ただ、後になって思えば、別に焦ることも隠すこともする必要は全くなかったのだけれど、この時の俺はどういうわけかなんだか必死になっていて、そんなことにまで考えは及んでいなかった。

「いいねえ、青春だねえ」

 オッサンみたいなことを言って名字が楽しそうに笑う。途端に居心地が悪くなった俺は、視線を泳がせて、陽の光に反射するフェンスを意味もなく見つめていた。ところどころ塗装が剥がれ落ちている。





 試験前に勉強に励む生徒で溢れかえる少し前の、誰もいない図書室。名字がまだ来ていなかったから、暇を持て余してさして興味もない本の背表紙を指でなぞっていたら聞こえた扉の開く音。名字だと思って振り返ったら、ふわふわした髪を手で抑えながらどこか緊張した面持ちの女子が入口に立っていた。どうりで静かに扉が開いたはずだと思った。名字は図書室だというのにも関わらず豪快に扉を開くからだ。
 名字でないことがわかって再び本の背表紙に視線を戻すと、小さいけれどよく通る声で「南雲先輩」と呼びかけられて、思わず振り返る。さっきの女子が発したものだと認識するのにたっぷり3秒かかった。俺のことを先輩と呼ぶその女子は、上履きの色から1年生だということがわかった。

 静かな図書室に、その声はよく響いた。

 俺のことを好きだと、そう告げた目の前の女子は、上気した頬を冷ますように手を頬に当てて、困ったように眉根を寄せていた。俺はそれをどこかふわふわした、地に足がつかないような落ち着かない感覚、それと裏腹に頭から冷水を被ったような変に冷静な感覚で眺めていた。言っていることが矛盾しているのはわかっている。クーラーの作動音が静かに唸った。
 今までに何度かこういうことがなかったわけじゃないけれど、いつもどうしたらいいのかわからなくなる。自分のことを好いてくれているというのはもちろん、喜ばしいことだ。だけど何故それが虚しいのか?それは、俺は相手にその気持ちをきれいに返せるわけじゃないからだ。それはどう考えても仕方のないことで、でもやっぱり心苦しくて、一方的に傷つけている気になるんだ。だからこういうのは苦手だった。
 もっとも、俺が誰かを好きになるとか、そういうことがよくわからないからいけないのかもしれない。そう思ったときこの前のヒロトの言葉がよみがえって、ふと名字の顔が浮かんだ。

「……悪いけど俺、」
「わかってます!先輩の気持ちはわかってるので、その、付き合ってほしいなんて言いません。ただ、あの……無理を承知で、お願いをひとつ聞いてほしいんです」

 今度の夏祭り、よかったら私と一緒に行ってもらえませんか。

 夏祭りと聞いて、ああ、名字が言っていたアレかと一人納得する。小さいけれど花火も打ち上げられて、この学校の屋上からも見えるってやつ。南雲くんは友達と行ってきてね、と名字は笑っていた。
 返事、待ってますね。
 はにかむように瞬きをして、小さな足音を立てて図書室から出て行ったその背中を引き止めることなく、図書室には再び静寂が訪れた。本来図書室とは静かに過ごすべき場所だ。でもあいつがいないとここはやたらに静かな場所なんだと、俺は初めて気がついた。





「えっ、じゃあまだ返事してないんだ?」

 左斜め下から素っ頓狂な声が上がる。名字はぱちぱちと目を瞬いて下から俺の顔をのぞき込んでいた。

「その子、かわいいって有名な子だよ。付き合うか付き合わないかは別として、行かなきゃ損だよ!」

 って、損得勘定で決断する話じゃないか。そう付け加えて名字は笑った。
 断る理由がないと言えばない。確かに可愛かったし、らしくないけれど短い学生生活のひと夏を青春に捧げることだってきっと悪くない。でも何かが引っかかる、たとえば、ヒロトの言葉と、目の前の名字の存在。
 そんな俺の気も知らずに名字は、あれはなんかドーナツみたいな形だねえ、と雲を指さしている。まだその話してんのか。


「南雲くん、お祭り楽しんできてね」

 まだ誰も行くって言ってねーよ。


20140716
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